一階は美津子さんが言ったとおり、紳士服のお店。細長いえんぴつビルを見上げると、中に入っているテナントの看板が縦にずらりと並んでいる。池袋や新宿でたいていの用は足りるので銀座などめったに出てこないが、あらかじめググってきたお蔭で、目的のビルへは迷わずにたどり着けた。
「蝶」「MAYUKO」「菩提樹」なんていう中に、「ユニ2」という名を見つけたとたん、ああ、来ちゃった、と急に緊張してきた。
佳香さんは今日あたしが訪ねてくることを知らない。押しかけだ。電話で話をしたとき、いかにも迷惑そうに「劉生に怒られるからわたしからはなにも話せないわ」と言われた。「おにいちゃんといっしょに暮らしているのですか?」というぶしつけな質問には「元気にしているからなにも心配することはないわよ」と、答えになっているようないないような返事だった。
美津子さんと違って、こちらに微塵も親しみを感じていないらしいのは電話だけで十分に伝わってきたけれど、あたしは佳香さんの声やしゃべり方が、とても艶やかで色っぽいのにどきりとした。声だけならこっちが勝ってるかも、なんて思ったくらいだ。
二人で暮らしている場所を聞き出したからといって、押しかけるつもりは毛頭ない。
でも、兄弟二人だけなのだから、住んでいる場所くらい知っておきたい。そこのところを佳香さんにわかってもらわなければ――。
あたしは子供のころから、いや、正確に言えばおかあさんがある日突然いなくなってから、家族がちりぢりになるという恐怖を常に抱いてきたように思う。同じ夢によくうなされた。
ノアの方舟みたいな大きな帆船にあたしたち一家と、パンダやナマケモノやテングザルなどがいっしょに乗っていて、大波に呑まれ船は転覆、みんな黄色い救命具をつけて海に浮かんでいる。てんでばらばらに。アフリカゾウまで巨大な救命具をつけて浮いている。
あたしは小さいから腰くらいまで海の上に突き出ていて、手を万歳するみたいに揚げてひらひらさせながら、おかあさん、おとうさん、おにいちゃん、と必死に叫び続けるのだが、動物も人もどんどん遠ざかっていく――。
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次回更新は12月4日(水)、21時の予定です。
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