この島というかこの国というか、その岸辺に打ち寄せられ意識不明だったところを一人の女性に助けられたことは気が付き、分かっているつもりである。ぼくの乗っていた船が難破して、一人、ここへと打ち寄せられたのか。

さらには、漂着して救助されたものはぼく以外にいなかったのか。ぼくが乗っていたのは船だったのか飛行機だったのか、それも分からない。

あるいは、ふいにぼくはぎょっとする、もしかしてぼくはこの世のどこかの岸辺に漂着したのではなくて、あの世のどこかの岸辺に漂着したのではないか。ぼくはもう死んでいて、向こうの、あの世の世界の中をこうやってさまよっているのではないか。

あの世に来ても意識だけはあり、奇妙なことながら、言葉だの言語だの声だのはあって、それによって、こうやって考えたり思ったりできているのではないか。それに見ること聞くことすべてが、この世のこととも思えないことばかりではないか。

それともやはりまだぼくはこの世にいて、この世のどこか、セイレイ嬢に言わせると、ここはナーダの国というから、そのナーダという国の街の中をさまよい歩いているということになるのか。分からない。

しかし、どう言ったらいいのか。こういう状態になって初めて、不思議な渇望というか、不可思議極まりない憧憬とでもいうものが、ぼくの中にいまだ途絶えることなく埋もれ、隠され、燃え続け、宿っていたにもかかわらず、今まで毎日のありとある雑事俗事に妨げられ、禍されて、一度として気が付かないままだったのを、すべての雑事俗事にまみれた日常の意識のすべてが取り払われ失われて初めて、その下の、その奥の、埋もれたままだった、深い本然の渇望、無意識の憧憬というものがふいにめくられたように露呈して来たというのだろうか。

ぼくのなすべきこと、求め、探し、尋ね、極めるべきだったことの何一つまだ成し遂げてもいず、成し遂げるべきであるとも思わず、浅く、軽く、気まぐれに、その日暮らしに生きて来たにすぎなかったのではないか。

今の今、そのことに愕然と気が付いたごとくなのだ。巨大な魂の飢えとでもいうものに今初めて気が付いたごとくなのだ。それがぼくの中に今まで一切気づかれもせずに、しかもそれだけがただ一つ残っていたと思い出されているのだ。自分を求める旅、真の自分を求める旅を、今まで一度として行なって来たことがなかったことが思い出されて来たのだ。遅すぎるのか、まだ間に合うのか。

ここがどこだろうと、即刻その旅に出発しなければならないと思えて来ていることは間違いなかった。

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