第一章
アンナ先生の家
マリア・カラスは無理なダイエットで声をダメにしたが、それをさせたのは愛人のギリシアの船舶王、アリストトール・オナシスだったという噂だ。
若い時肥満(九十キロ近かったという)だったカラスはオナシスに毎日人参の汁を飲まされてスリムな体型になった。でもそれはただの作り話だったかも知れない。カラスはオナシスの為に実業家の夫と別れたが、そのころにはもう痩せていたという話だ。
昔のオペラのプリマは総じて体格のいい女性が多かった。それが居並ぶ求婚者の首を次々とはねる残酷な姫の役や、結核でやせ細り息絶える薄幸の女性の役をやるのだから、演じる方も見る方も大変だ。
モンセラート・カバリエというスペインのプリマがいた。彼女は超肥満で立方体のような体型だった。ある時イタリアでのガラ・コンサートで、アンコールにスペイン民謡のハバネラを歌った。
ハンカチを振りながらくるくる旋回していて、ドタッと大きな音を立てて転んだ。すると観客がどっと笑ったという。
不世出の名テノールと言われたルチアーノ・パヴァロッティも超重量級だった。彼の娘たちは「パパの体重は誰も知らないの」と言っていたそうである。
その彼が『アイーダ』で王子ラメセス役で馬に乗ることになった時に、道具係は馬がへばらないか心配したそうである。アンナ先生は言う。
「だから私はカロリーの高いチーズは絶対食べないのよ」
チーズを食べないイタリア人なんて聞いたことがない。でもアンナ先生はキッパリ断言するのだ。
「チーズみたいなミルクの腐ったようなものの一体どこがいいのか私には分からないわ」
だが最近では映像革命やインターネットの影響で、オペラ歌手は声がいいだけではだめで、容姿も良くなければならないようになった。これはいい声を出さねばならない歌手にとっては大いなる矛盾だが、何とかこの困難な課題をこなしていかねばならない。
「私はピエロ・パオロ・パゾリーニの映画『王女メディア』に出ていたカラスを見たわ。五十に近かったかしら。でもまだきれいだったわよ。
いかにもパゾリーニらしく、最初にメディアが自分を迎えに来た血を分けた弟を殺して、切り刻む場面で観客の度肝を抜くところから始まるの。でも歌は歌わなかったわ」と言って先生は首を振る。
「私は映画を見て『ああ、〝メディア〟に出ながら歌を歌わないカラスだなんて、何てことでしょう』とつぶやいたわ。だってケルビーニ作曲のオペラ『メディア』を復活させたのは他ならぬカラスだったのよ。カラスが歌わなくなってあのオペラも死んでしまった。カラスの後、誰も歌わなくなったのよ」