幸はとにかく上がってほしいとすすめたが、夫人は上品な鼻緒の草履を脱ごうとはせず、立ったままで話しだした。

「あなた様がご存じの通り主人は会社の中でこれから昇進していくのに重要な時期におりますの。また実は娘がある企業の重役さんのご子息とのご縁があり、もう少しで婚約が整いつつあります。

かように主人も娘も、共に大事な時を迎えておりますので、今おかしな噂が立つと困るのです。どうかわたくしの言わんとすることをお察しいただきたいと存じます。尚、わたくしがこちらにお邪魔したことは主人には内緒にしております」と、一方的に言った。

何を勝手なことを言うの、と幸は思ったが、その時母の言葉が蘇った。

「あんたがお付き合いする相手のご家族にご迷惑をかけることだけは、絶対にやってはいけない」

自分は風間家に迷惑をかけるつもりはない。今のままでひっそりと生きていければいい、そう思っていた通りを幸は風間夫人にぶつけた。

「私は風間さんのご家族にご迷惑をおかけするつもりはありません。今のままでいいんです」

「それが困ると申し上げているんです。きっぱりと別れてください」夫人の声が少し大きくなった。

「ご迷惑はおかけしません。私は何も望みませんのでご安心ください。只お付き合いだけは、今まで通りの形でさせてください。お願いします」これは勝手な理屈かも知れない。

「それがダメと言っているのです。主人とは一切会わないでください」

「それは出来ません」

話が堂々巡りになった。

「別れてください。お願いします」夫人の声が更に大きく尖ったようになった。幸は、「ご近所迷惑です。お帰りください」と言って夫人を外へ押し出し、ドアを閉めてしまった。