少女は僕に気付いていたようだ。祈りを終えると、まっすぐこちらに歩み寄ってきた。
「ナマステ!」僕は立ち上がり、挨拶をした。少女は胸の前で合掌(がっしょう)すると、こぼれるような笑顔を見せた。
ブルーのサリー姿に、肩にかけた生成りのショールが、春のような柔らかい陽ざしを受けてよく似合っている。
「あなたの額にもこれを付けて良いですか?」と言って、少女は自分の額を指差した。
額には、赤い顔料のようなものが塗られていた。確か、ビンディーといったはずだ。
僕を見つめる瞳と声に、相手を思いやる優しさが込められている。
愛らしい仕草の少女に親しみを感じた僕は、ちょっとおどけたように「アチャー」と言って、インド人が同意する際の動きを真似て、頭を左に傾けた。彼女は驚いたように、澄んだ大きな瞳をさらに大きく見開くとクスリと笑った。
腰を屈めると、少女は僕の額にビンディーを塗ってくれた。
ヒンドゥー教徒の女性にとって額にビンディーを塗るのは特別なことなのだろう。それはキリスト教徒が胸に十字架のネックレスをするのと、同じ意味を持っているのかもしれない。
少女の優しさに触れて、自分が抱える悩みや苦しみが不思議と少しだけ薄らいでいくような気がした。
「ありがとう」僕は日本語で感謝の気持ちを伝えた。彼女は意味が分かったのだろうか、少しはにかみながら微笑んでいた。そして出会った時のように胸の前で心のこもった合掌をすると、名残惜しそうに何度も手を振りながら、下流にあるリシケシの街に向かって去っていった。
少女はなぜ、僕の額にビンディーを塗ってくれたのだろう。……見知らぬ国から来た若者に、親近感を抱いたのだろうか。それとも神の救いを求めているように見えたのだろうか。
それに確か、既婚の女性が額に塗るものだったはずだが、聖地リシケシでは習慣が違うのかもしれない。理由は分からないが、僕の胸に優しい温もりが灯されたのは確かだった。
日本ではともすれば単なる儀式として埋もれてしまう信仰が、ここでは暮らしの中に溶け込み、人々の生きる支えになっている。少なくとも僕は日本で、あの少女ほどひた向きに神を信じ、その神の愛を他人に施そうとする行いを目にしたことはなかった。
少女との出会いからずいぶん経って知ったのだが、彼女は僕の額に「ビンディー」ではなく、ヒンドゥー教の僧侶や求道者の男性が、神への信仰の証(あかし)として額に赤く塗る「ティーカ」を付けてくれたのだ。
【前回の記事を読む】「え?100パイサ!?」相場は10パイサぐらいのはずだ。いいカモにされたらしい。意地悪そうな林檎売りに、咄嗟に言い返しはしたが…