「ここではいつも普通に、昼休みとか、今だって、普通に話ができてるよね。当たり前に。これ、ごく当たり前のことでしょう、ねえ」と言って言葉を切った。そして、グラスに口をつけて残っていた色のついた氷水を飲み干した。
僕の目とユミの目が、一瞬交差する。
「私だって、まともな話なんて誰ともしない。ここでの話だって、こんなこと言ったら身も蓋もないけど、別に意味のあることなんてしゃべってないし、その必要もないでしょ」 とユミが言った。
「これって永遠のテーマだと思うよ、誰とどんな話をするのが理想なのか。だいいち、どんな話をするのが良いことなのか、それができないのは悪いことなのかとか、ひょっとしたら解決不能かもしれない。
僕も、ちゃんとした話なんてしないし、できないかも。誰とも、少なくとも深い話は、したことがない気がする」と僕も言った。
「良い話とか、深い話とかじゃあないの。そんなの、しないのが当たり前よ。家族と難しい話なんてあり得ない。それって、テレビドラマとか映画の中でだけだよね。家族と幸せについての議論なんて、全然あり得ないよね」とサキコさんが言う。
そして、「普通の話ができるかどうかってことと、いい話ができるかどうかってことは、まったく違うことだよ」と続けた。
「サキコさんが言う普通の話って、それ、どんなことなの」と、ユミが例の涼やかな目になった。
サキコさんは少し考えた後でこう言った。
「おはよう、とか、いい天気だね、とか、ごはんおいしかった、とか、大丈夫? 元気出しなよ、とか、母ちゃん大好き、とか、サエちゃんありがとう、とか、父ちゃん頑張ってね、とか」
サキコさんの右目からまた大粒の涙が溢れ出した。イチヘイがテーブルのナプキンを取って軽く握られているサキコさんの左手の中に押し込んだ。
「でも、子どもを三人も作った夫婦がさ、普通の会話ができないって、俺には話が見えないし、まして救急車の世話になるほど殴られて、まだ平気で一緒にいるなんて、まったく理解不能だよ」とイチヘイが言う。
【前回の記事を読む】彼女は一度瞬きをし、顔を少し斜めにずらして僕の唇に唇を重ねた…