第一章 東京 赤い車の女

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「私ね、『いつまでパンなんか焼いてるつもりなの』って言ってしまったの。それからあれこれあって、おととい殴られちゃった」

サキコさんの右目からばかり涙が流れてくる。イチヘイがテーブルに備えつけのナプキンを何枚か取ってハンカチ代わりに渡した。

「子どもが三人いるのよ」と言って、自分に言い聞かせるようにサキコさんはうなずいた。そして、「上のお姉ちゃんが面倒見てくれてるの、まだ高一なのに。下は中一と小一なのよ」と続ける。

「私が朝から仕事の時は、ご飯食べさせてくれるの。この仕事が始まってからは、ずっと毎日よ」イチヘイが渡したナプキンで鼻を押さえながら、「三人一緒に進級するから、こっちは大変よ」と言い、ふっふっと泣きながら笑う。

「こんなに頑張ってるんだから、泣くような目に遭うのはおかしいよ。どうしてサキコさんが泣くような目に遭わなきゃならないんだ?」と、イチヘイが大きな声で言う。

サキコさんは右手の人差し指を唇の前に立ててシっと発し、「恥ずかしいから止めて、そんなに大げさなことじゃあないんだから」と言った。

「すごく大変なことだよ、殴られるなんて普通じゃあない」と、少し声を潜めてイチヘイがなおも言う。

「あなたたちみたいなインテリにはしょせん関係ない話よ。私たち、だんなも私も、高校を途中でやめてるの、学歴は中卒よ」と、サキコさんは色のついた氷水だけになったグラスを左手で回すようにしながらしゃべり続けた。

「大した仕事にはありつけないの。働けば働くほど、お金と生活のバランスが悪くなるの。入ってくるお金の量と子どもたちが被る不自由さのバランスが、全然つり合わないのよ。

今のこの仕事だって生活費には全然足りないよ。あんたたちみたいに遊ぶ金欲しさなら折り合いがつくんでしょうけどね。うちのサエ、長女だけどね、朝から晩まで弟と妹の面倒みてて自分の時間なんてないんだよ。高一でだよ」

「でも、それでサキコさんが殴られるいわれはないよ」とイチヘイが言葉を挟む。

「甘いよ、何もわかってないよ、あんたは」と、サキコさんが厳しい口調になった。

「あんた貧乏学生って言ったけど、あたしの仲間じゃあないよ。だいいち、仲間である必要がないじゃない。バイトは大変だろうけどちゃんと大学にも行けてるし、将来の夢だって持ててる。親だって普通に生活できてるし。全然違うよ」

「こっちはね、私たちはね、家でみんなと、普通の話なんてしないんだよ。だんなにしろ子どもにしろ、したくてもできないの。どんなに仲良く話したいと思ってても、話してみたら普通の会話にはならないんだよ」