一年生
想像もできない昔になってしまったが、朋が長崎県立長崎高等女学校の専攻科に進学したのは昭和十八年の四月だった。
朋の父親は、三菱の長崎造船所の下請け工場で経理係長をやっていた。父も母も生まれは福岡で、父はそこの商業学校を出たあと、ツテを頼ってその会社に入れてもらったという話だった。
一人娘の朋が将来、身寄りのない長崎で暮らしていけるように教師にしたかったらしい。専攻科を卒業すると、無試験で中等学校の家政の教師になれたのだ。だから、市立の高等女学校を終えると県立女学校の専攻科に進学させた。
長崎県立長崎高等女学校を市内の人々は「県女(けんじょ)」と呼び、長崎市立高等女学校の方を「市女(いちじょ)」と呼んだ。十二歳から入学できる女学校の本科は、長崎県では四年制で、そのあとに三年制の県女の専攻科へ進学できた。朋が入学したときの専攻科は、第一部(家事)と第二部(裁縫)の二クラスで、合計五十人前後が定員だった。
父に進学の話を出されたとき、朋は少々考えたが、市女を卒業しても時節柄どこかの工場の女工くらいしか進路がなかったし、何よりも専攻科の制服に憧(あこが)れがあったので、教師になるかは別にして、結局父の言葉に従うことにした。
専攻科の制服は、子供っぽいセーラー服ではなく、スマートなワンピースドレスで、胸元の徽章(きしょう)は金色でふちどられていて、本科生の銀色より格段にオシャレだった。その制服を着て、その徽章を付けた自分を思うと心が浮き立った。
だから、進学希望を出してからは、今までにないほどに夜遅くまで勉強をした。それでも、合格できる自信がまったく持てずに、入学試験のあと発表の日までを鬱々(うつうつ)として過ごした。