プロローグ
「真由美(まゆみ)」
朧(おぼろ)な光の中で母が呼んでいる。
「真由美、真由美」
母はいつまでも、何度も私を呼び続ける。
「真由美」
声が少し尖ってきた。声はするのに姿が見えない、母はどこにいるんだろう。
「真由美、早く起きなさい、もう六時五十五分よ」
五十五分? そんな馬鹿な! 慌てて起き上がると、枕元の目覚まし時計の長針は五十五分をさしていて、短針は限りなく七に近かった。
「なんで早く起こしてくれないのよ」
「何言ってるの、目覚まし止めたのは自分でしょ」
階段の下から母が怒鳴り返す。朧だった記憶がいっぺんに鮮やかになった。あと五分、と思って目覚ましを止めてから二十五分も経っているなんて……。今日は七時半から合唱部の練習で、しかも"鬼のカズちゃん"と呼ばれている鬼塚(おにづか)先生が指揮する全体練習からスタートだ。もし遅刻したら……。暑い八月の朝の空気がたちまち冷え冷えとした。