四分で洗顔、八分で着替えて髪を整え、三分で冷え切ったトーストを何もつけずに牛乳で流し込む。籠に盛られたゆで卵が魅力的だが、殻を剥いている時間はない。学校まで自転車で十五分、自転車置き場から部室まで四分、先生を迎える準備に一分。これでなんとか間に合う。

鞄を持って立ち上がった私に、「真由美、仏壇にご飯を上げて」

このタイミングで……。鬼のような母に恨みごとを言いかけて、でもご飯を上げるのは私の役目だから、と諦めた。ご飯が丸く盛られたご飯入れを仏壇にそなえて、おりんを鳴らす。

仏壇の上には四人の写真が飾られている。祖父の栄二(えいじ)じいちゃんと祖母の朋(とも)ばあちゃん。それに、朋ばあちゃんの両親で、私は会ったことのない私の曾祖父母。ばあちゃんは私が十歳の時に亡くなった。

栄二じいちゃんが始めた小さな印刷屋は、朝から夜おそくまで輪転機が回っていて、父が始めたWebデザインのパートさんもいて、家族はみんな忙しくて、私と姉ちゃんはばあちゃんに育てられた。八歳上の姉ちゃんは私のことには無関心だったから、ばあちゃんが育ての親だった。

おむつを替えてくれたのも、ご飯を食べさせてくれたのもばあちゃんだった。お風呂には一緒に入ったし、八歳まで同じ部屋で寝ていた。母よりも父よりも、誰よりも好きなのは、朋ばあちゃんだった。

大正十五年生まれで、私には曾祖母に近い年だったが、父も私も末っ子だったから、間違いなく私の祖母だ。八十を過ぎても綺麗で、若々しくて、優しくて、私は大好きだった。

だから、じいちゃんには少し申し訳ないけれども、ばあちゃんの写真に向かって、

「行ってきます」

と心の中で挨拶をした。

写真のばあちゃんは笑っている。柔らかい笑顔だ。包み込むような、抱きしめてくれるような、温かな笑顔。それは、ばあちゃんの笑顔の中にヤッチンやミサちゃんやシズちゃんたちの笑顔があるから。

ばあちゃんは昭和二十一年に長崎県立長崎高等女学校の専攻科を卒業した。その専攻科でヤッチンたちと出会った。この話は少し長くなるが、どうしても話しておきたい。トモちゃんと呼ばれた「朋」ばあちゃんとヤッチンたちの物語だ。