其の弐
三
周りには名も知らぬ黄色の花が咲き、その先に満々と水を湛えたダムが見えていた。そしてさらに向こうには両翼に山脈が延びている。振り返ると背後にも山並みが聳え、本当に見渡す限りの山だった。
遠くから車の音が聞こえてきた。どこを走っているのかは判らないが、その音で一日の始まったことを感じた。骸骨は少しぼんやりしていた。もう少しここにいたいような気がした。一瞬このままここで暮らしてみようかとも考えた。
どこへ行っても同じだ。それならここにいても変わらないのではないのか。だがゆっくりとかぶりを振った。
「僕は社会へ出ヨウト思ッタンダ」
一つずつことばを区切るようにして自らに言聞かせた。すると少しだけ勇気が湧いてきたような気がした。だが腰が根を張ったように重かった。
「僕ハ自立スルト誓ったんだ」
骸骨はやっと腰を上げた。本当は心細かった。衣服の草を払うと、ちらりと今まで寝そべっていた所を振り返った。
やがて前を向くと歩き始めた。陽が高くなってきた。朝陽を身体中に浴びながら、そのまま里への路をまだ覚束ない足取りで下っていった。
四
右手は見上げるような崖だった。路はくねくねと曲がっていた。左手には深い谷が刻まれ、遥か下方で川水が牙を剥いて岩を噛んでいた。またトンネルが続いた。狭く曲がりくねったトンネルだった。
骸骨はとぼとぼと歩いていた。中は騒音と振動と排気ガスでごった返していた。大型バスが壁一杯まで迫ってきて、何度も摺り潰ぶされそうになった。車が後から後から続き、道路というよりも何かの坑道といった具合だった。
とんでもない所へ来てしまったと思っていた。トンネルの壁に背を摺りつけて躙るようにして進んでいた。轟音が中に響き、何度も戻ろうかと思った。だが里へ下るにはこの路しかないのだ。二歩進んでは立ち止まり、三歩歩いては壁に寄りかかり、その迫力はかつてのガードマン時代の比ではなかった。
生きた心地がしなかった。胸で十字を切りたいのだが、それも出来ない。念仏を唱えようかと思うのだが、うっかり口も開けられなかった。そうしてやっとのことで一つ抜けると、また次のトンネルが待ち受けていた。
泣きたくなってきた。それでも何とか我慢してそろそろと中へ入った。続々と向かってくる車のライトを見ていると、眩暈がしそうだった。そしてやっとのことでトンネル群を抜けた時にはへとへとに疲れていたのである。
相変わらず車の数は多かった。だが路端で休んでいると乗用車が目につくのに気がついた。なるほど今日は日曜日なのだ。きっと上高地に向かうのだろう。車の人々がじろじろ見るのには閉口したが、路傍の石塊に腰かけて悠然と煙草を吹かしていた。