借金地獄アメリカの破壊
レーガンが1981年1月にアメリカ第40代大統領に就任した時、アメリカの債務の対GDP比率は32.5パーセントで、それ以前では1930年代以来の数値だった。レーガンは就任時課題に直面していた。
それは20パーセントの金利であり、15パーセントのインフレ、そして大恐慌以来最悪の不況まっただ中であり、その克服のため最初の2年が費やされた。
それでも債務レベルは低く、アメリカの信用は万全だった。連銀の議長ポール・ボルカーが1982年にインフレ退治に成功したあとは、金利は下がり、不景気は終わった。
力強い成長が始まり、1983年から1990年まで、それは続いた。この時期は「ドルは王様」と言われ、ドル紙幣は健全な時代だった。
良く知られた神話とは異なり、レーガンは財政保守派ではなかった。彼は浪費家だった。低い債務比率を知り、彼は冷戦に勝つための武器を手に入れたと考えた。
彼は昔の戦時の大統領リンカーンとルーズベルトと同じ決意をもって戦いに勝つため打って出た。冷戦は南北戦争や第二次世界大戦と同様実在の闘争だった。
財政赤字と借入力を生かして、戦略防衛構想(通称スター・ウォーズ計画)迎撃ミサイル技術それに600隻船舶の海軍など軍隊の著しい拡張のための資金調達をした。
1980年代半ばにはクレムリンの首脳らはアメリカとの競争に、軍隊の規模でも財務的にもついて行けないと悟った。
ミハエル・ゴルバチョフが1985年にソ連のトップとなり、レーガンと交渉して軍隊の拡張を緩和させ、ソビエト社会を解放し、また経済を現代化するために時間をかけることを申し出た。
交渉は成功した。ソビエトの解放プロセスは、当時グラスノスチと呼ばれたが、ヘルシンキ宣言で保証された事項と結びつき、管理できない状態となり、中央ヨーロッパでの自由を求める抵抗運動へ、遂には1991年のソビエト連邦崩壊に繋がる。
冷戦時の巨額の新規支出に加え、レーガンは政権初期から大幅な減税を推し進めた。レーガンの時代にアメリカの債務の対GDP比率は32.5パーセントから53.1パーセントへと伸び、1960年代の初めにおいて最も高い水準となった。
レーガンの功績としては冷戦に勝ったことが挙げられる。
ソ連の消滅は1991年12月25日であり、当時ブッシュ41代が大統領であったが、歴史家が正しく評価するように、レーガンの軍事と技術政策が勝利へと推し進めた。
レーガンは当然のこととして、アメリカは戦争に勝つために債務を積み上げ、戦争が終われば債務を減らすという歴史的パターンに従うものと信じていた。