第1章 渚にて

私は定例ミーティングのため上司ラスの部屋に居た。実験ノートを手にして彼の机の前に立っていたとき、彼は忘れもしない言葉を私に放った。「君はね、私が命じたとおりに行動する道徳的、法律的、そして倫理的責任を負っているんだ」

それは1987年の夏のことで、私は29歳で、ミシガン州カラマズーにあるアップジョン製薬会社に勤務していた。その前年にアップジョン社の品質管理部門の研究室の技術者として採用されていた。

それまではメリーランドのフォートデトリックで生物学的応答調節物質研究チームの一員だったが、そのプログラムが解散されたための転職だった。ラスがあのように発言したとき、私のアップジョン社での仕事がすでに終わりに近づいていることに全く気づいていなかった。

科学を追究するのによい場所なんてどこかにあるのだろうか?

私は何十年も研究を続けながら、何度も自問した。政府が支援する科学であれば、偏見や政治から無縁だろうか? それとも利益重視で動く産業界なら、真剣に資金を投入するため人命を救う可能性を秘めているのではないか。

私は政府が支援する科学も、産業界も偉大な善をもたらす可能性を持っていると信じるようになっていた。しかし、どちらであっても、それぞれの責任者に高潔さが欠ける場合、簡単に歪んだ方向へ向かいがちになる。

それに政府が支援する科学であれ、産業界であれ、その組織でのし上がっていくほど、高潔さを持つ人は希少な存在になっていく。

私が本書を書くのも科学にその原点に立ち戻ってもらいたいと願ってのことなのだ。

私が医者になりたいと思ったのは、10歳の子どもだった頃に、愛する祖父が肺ガンで衰えていく様子をなすすべもなく見ていたときだった。祖父とはよく野球中継をラジオで聞いたものだ。そのお陰で今もスポーツが大好きだ。

1980年私がバージニア大学の4年生だったときにタイム誌のインターフェロン特集記事を読んだ。当時インターフェロンはガン治療の革新的手法であるともてはやされていた。

その年の秋に私はメリーランド州フレデリックにあるアメリカ国立ガン研究所の研究室技術者として採用され、科学者としてのキャリアが始まった。私の仕事はインターフェロンを精製することだった。

アメリカ国立ガン研究所で私が一番好きだった仕事が生物学的応答調節物質の研究プログラムで、いろんな分野から博士や医師、看護師それに私のような研究技師がフォートデトリックに集まった。