第1章 渚にて
私はアップジョン社では変わり者だった。それは読者の皆さんが思い浮かべる理由によるものではない。
アメリカ国立ガン研究所での勤務の大半はフランクの元で働いていた。私たちには科学に対する自然な思いがあり、 2 人とも同じようなアプローチをしていた。
フランクと私は朝の4時か5時に職場に出て、実験の準備をして夕方の6時まで働くことにつき何とも思わなかった。
科学は楽しくってしかたなかった。
産業界ではこのような働き方はしない。アップジョン社では研究者は朝の8時30分に出社し、9時45分まで働き、15分休憩をとり、戻って正午少し前まで働き、その後30分ランチ時間をとり、2 時頃に午後の休憩が入り、その後また仕事に戻る。
アップジョン社では夏には午後3時30分で仕事が終わる。会社には社内に沢山のスポーツチームがあり、私はソフトボールチームと冬にアイスホッケー、それにサッカー部に所属した。
サッカーをしたと言ってもほとんどボールに触れることはなかったので笑ってしまう。私たちのサッカーコーチはウェインという背の高くてハンサムな黒人で人事部の責任者だった。
私はよく走り、自転車にもよく乗ったのでお陰で耐久力が少しばかりあった。サッカーは初めてで、うまくなかったがしつこさがあった。ウェインは私のその素質を見抜き、相手チームのトップ攻撃選手の防御に抜擢した。
私は彼らに瞬間接着剤のようにつきまとい、彼らは耐えきれず「私から離れてよ! 離れなさいよ!」と言い出す始末だった。私たちのチームの勝利は私が相手チームのトップ選手にボールをコントロールさせないでいたことでもたらされた。
私の職業倫理観が人事問題になっていると最初に言ってくれたのがウェインだった。私は上司のラスが来る9時より3~4時間前に出勤していた。朝 9 時は私にとって一日の真ん中くらいの感じだった。
私たちは当時売り出されたばかりのウシ成長ホルモンの研究中だった。他の多くの製薬会社も同じような製品を売り出していた。その売りはこのホルモンは家畜に副作用を及ぼすことなく牛乳の生産量を増やすということだった。
素晴らしいアイデアだと私は思ったが、アップジョン社には製品が細胞系に与える影響を研究する生化学部門がなかった。
会社には多くの優秀な化学者がいて、実際に質量分析計とか高速液体クロマトグラフィーなどを使って素晴らしい実績を上げていたが、実は生化学の充分な経験を持つ研究者はあまりいなかった。
このこともあり私はアップジョン社に来たいと思ったのだった。朝早く出社していたのは国立ガン研究所での私の慣行であり生化学の評価分析方法を考案設計するためだった。