丽萍(リーピン)がドイツに渡ってから半年後、仁は驚きのメールを受け取った。メールは英語で、最愛の妹の死が書かれており、留学生活を諦めて、鞍山に帰りたいとの内容であった。また、ドイツでの生活について、経済的に予想以上に厳しいこと、貧困での学生生活は耐えられない旨の状況報告も記載されていた。
Webメールへの返信は、社内セキュリティで禁じられており、返信することはできないと思いながら、携帯電話から中国携帯へ簡潔にお悔やみのみをメッセージで返信することにした。
二月(ふたつき)程の間を開けて、既に帰国し、ドイツへは戻らないこと、鞍山の実家では家族が離散しており、母親は、最近、教員を定年退職し実家に戻って、祖母と暮らしていること、父親は鉄鋼工員として、江西省南昌市で働いていること、自分は鞍山で暮らす場所がないので、大学時代の友人が働いている大連の旅行社に就職して、大連に住んでいることが簡潔に記載されていた。
仁は開発システムの検証作業で日本から離れることができず、導入までに大量の業務課題と日々発生するプログラム不具合に埋もれて日常を送っていた。当初予定の十月導入を諦め、半年後の四月稼働に変更することを会社側に納得させることができたが、四月稼働は死守することを約束することが前提となっていた。
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春節明けの真冬の上海から始まった導入前の実機での稼働試験は、制約された時間の中で、多くの問題を緻密に計画的に一つ一つ解決していく作業となった、気の抜けない仕事で神経が擦り切れる日々となった。久し振りの上海で丽萍(リーピン)の携帯電話を鳴らしてみた。思わずコールする電話に驚いたが、結局、通じることはなかった。
日曜日に渡海し、水曜日朝一で青島に移動、木曜日の最終便で大連移動となり、土曜日に関空1行きで帰国することとした。
注1 関空…関西国際空港
【前回の記事を読む】想像以上に辛いドイツでの留学生活。裕福な同居人に下僕のように扱われる日々