そのクリスマス・パーティーに欠かせないのがアメリカ軍人のジョニー・八木さんだった。彼はハワイ育ちの日系二世で当時はまだ二十代で独身だった。
八木さんは僕らにとってはサンタクロースみたいなおじさんだった。というのはクリスマスには基地のPX(注:Post Exchageの略。米軍売店の呼称)で手に入れたアメリカのお菓子をどっさり持って来てくれたからだ。
漫画ガム、ソフトポポズ(丸い棒付き飴の呼称)、ミルキーウェイ、ハーシーの板チョコなどなど、僕らには手に入らないお土産の数々――僕らは改めてこんなお菓子を子供たちが食べている国と戦争をしたのだと思い知らされたのだった。
僕が中学三年になった時、クラスに転校生が入ってきた。僕は彼に対して特別の関心はなく、ましてやそのことがやがて僕の人生にとって大きな転機になるなんて夢にも思わなかった。
少年の名は沢田勇作(ゆうさく)。でも教師が今までいた学校の名前を聞くと押し黙ったまま首を振る。小学一年坊主じゃあるまいし、自分のことが分からないという年ではない。
まさか天から降ってきたのでもないだろうに、名前に反してはっきりしない少年だった。仕方なく教師が彼の代わりに説明して彼は満州から帰ってきたと言った。
勇作はいつもふくれっ面みたいに唇の回りをふくらませており、何を聞かれても首を振るだけだった。学校に行けない事情があって勉強が遅れてしまったのか、先生の質問にも答えない。
僕らの学校は新制になって四年目でまだ戦後の教育の混乱期から完全に抜け切れていなかったから、学校に行きそこなった子供の存在はさほど珍しくはなかった。
でも休憩時間の友達との受け答えから判断すると勇作は知的障害というのではなくて、ただ人としゃべるのが嫌なだけなのかも知れなかった。
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