Ⅰ レッドの章

米軍基地

僕たちの住む家の傍を元川という川が流れていたことは前述したと思う。

川向こうには特殊集落があり、母親からあそこには行ってはいけないし、あそこの子供とも絶対に遊んではいけないと厳しく釘を刺されていた。母の宗教的信条とは甚だ矛盾する言い方だったが、母はとにかくそう言った。

父は急患や何らかの事情で病院に行けない患者には時々往診をしていた。僕の父は自由な考えの持ち主で、人を差別しなかったから患者から慕われていた。

特殊集落へも父は往診に行った。その集落のすぐそばにある勇作の家にも頼まれて往診に行ったことがきっかけで、彼の家のことが少しずつ分かるようになった。

勇作の一家は戦争の終わった翌年の秋に日本に帰国したらしい。一時母親の故郷の福井に身を寄せたが、一年半ほどして父親の故郷の鶴前に移って来た。

一家がいたころに福井大地震が起こり、夥しい数の死者が出たという記事は新聞に載っていたが、他にも理由があったのかも知れない。彼らは集落の住民ではなかったが、集落のすぐ外れの家に住んでいた。

それは家と呼ぶには余りに粗末な、集落の家々と比べても似たりよったりの掘立小屋だった。何でも親戚が以前農機具置き場に使っていた小屋らしく、見るからに気の毒な感じである。

母親と、勇作の上に姉二人兄一人、下に弟一人。父親はシベリアに抑留中。子沢山で父親のいない生活は厳しく、生活苦にあえいでいる。だが当時の日本の庶民は大なり小なり貧乏で、貧乏という名詞の上に大、中、小がつく程度だった。