父の患者は勇作の二つ違いの弟で、体中にできものが出来て苦しんでいた。顔も手も足もふきでものだらけで見た目にも見苦しく皆に気味悪がられて、そのせいか学校も休みがちだった。

母親はこの子の皮膚病のせいで彼女の故郷で〝うつる〟と言われて村八分に遭い、夫の故郷に逃げるように移ってきていた。

父の専門は皮膚科ではなかったが、戦争中は栄養不良から来る皮膚病患者を多く診ていた関係で皮膚病には詳しかった。父はその子が外地で多かった風土病に感染したせいだろうと診断し、塗布薬を処方した。

油性で独特な臭いを放つ塗り薬に覆われた子供の頭は、確かに人に嫌がられるものだっただろう。頭中ぶつぶつと膿を持ったできものだらけで見た目にいかにもグロテスクだった。しかも栄養状態が悪かったので治るのに時間が掛かった。

父が聞いてきた話では勇作の父親は戦前満州の奉天(ほうてん)(今の瀋陽)で工務店を営んで成功していた。

父親は日本人の他に満人や朝鮮人も雇い入れて、日本人経営の会社の社屋や民間の家屋の建設を請け負い、景気は上昇気流に乗っていた。寒冷な満州の民家は本土のそれとは違い、紙や木ではなく煉瓦積みのしっかりした洋風建築が多かった。三階建ての商館や店舗なども手掛けたという。

勇作の母は僕の父に満州での暮らしはとても良かったと語ったそうだ。奉天の全館暖房のしゃれた洋館に住み、居間の飾り窓のガラスはベルギー製、両親のベッドはフランス製、娘たちの服はハルピンに亡命してきたロシア人の老婦人が縫ってくれた。

欲しい物は何でも手に入る。父親は事業で儲けた金で満州のあちこちに土地を買い、日本人向け建売住宅を建てて事業を拡げようとしていた。父親は皇国日本の勝利を信じ、もし満州がどうにかなる時は日本もなくなる時だ、だから心配は無用だと信じて疑わなかったという。

実際戦争に負けるまで八、九割の日本人はそう信じ込んでいたのだ。