芳野先生が晴美のそばに来た。「今日はあ行をやりましょう」と言った。朱で「い」と「う」と「え」と「お」を半紙の上に横長に書いた。先生の小筆の動きが速いので、晴美の頭はそれを追うので精一杯だった。特に「え」と「お」が大変そうだ。

「さぁ、書いてごらん」

芳野先生が言った。「うぅーん」と小さく晴美は唸った。

その声に左側の女性は筆を止め、晴美の顔をちらっと見た。その顔は何の感情も表してはいない。極めて無表情であった。

チャンスだ! 晴美の胸を踊るような言葉が突いたのだ。晴美はその顔を見逃がさなかった。

「すみません。つい、難しくて――」

晴美は小さな声で囁くように言った。すると、その女性は、「みんな最初はそうよ。心配しなくていいのよ」と晴美に耳打ちするように言ったのだ。晴美は急に胸の中いっぱいに色とりどりの花々が咲いたような気がした。

俄然、小筆に勢いがついた――。「え」も「お」もなんとかこなした。芳野先生は「そうそう、その調子だよ」と弾んだ声で言った。

「初日の『あ』は緊張していたのかな。今日はだいぶ形を整えて書けたね。どんな字でもバランスが大切。それがないと文字になりません。今日はここまで」

そう言われて、晴美はふと腕時計を見た。

針は十一時を指そうとしていた。

その夜、夕食を囲んで晴美は上機嫌であった。書道塾の左側の女性と少し接触を持つことができたからだ。末っ子の晴美が明るく振舞っているとすぐに家族みんなに電線のように伝わっていく。

父親も母親も兄も姉もほっと胸をなで下ろし、心までもが晴美につられて愉快になっていくのであった。

井意尾家の明暗は晴美の心の動きそのものなのである。それほどみんな晴美が『円い町』の町民になれることを心底願っているのだ。晴美は逐一、その日の出来事を、夕食の折に報告している。

「晴美、もう少しだな。まだ一週間が済んだだけだ。焦らないで自然体で友達ができることを期待しているよ」

父親は晴美の頬が緩みっぱなしになっているのを見ながら、おいしそうに素麺を啜っていた。

季節は夏の到来を示している。暦の上では七月に入ったばかりだというのに。向日葵が家々の庭に姿を現し、咲き始めている。晴美の家の庭にも混じりっ気のない真っ黄色の花弁が際立ち始めていた。そんな向日葵の生命に接して、晴美は一層勇気づけられるのであった。

〈向日葵に、植物の向日葵には負けたくない〉

晴美は胸の奥深いところからそんな思いが湧き上がってくる。

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