第二章 晴美と壁

5

晴美は帰宅して夕食をとっていた。晴美のうきうきとした嬉しそうな表情を前に母親の顔にもにこやかな笑みがこぼれた。

「晴ちゃん、随分嬉しそうだね。いいことあったの? そう言えば今日はデイケアに行ったわねぇ」

父親、兄、姉たちがその言葉に一斉に目を晴美に向けた。六つの目たちも笑っていた。

「うん、デイケアでどうも友達ができそうなのよ」

今日のソフトボール大会のことを事細かく話した。

「それはよくやった。晴美は積極性があるからな。父さんも少し安心したよ。もうひと押しだな」

みんなも「そうだよ、そうだよ」と相槌を打って労ってくれた。

木曜日の朝の目覚めはとてもよかった。久し振りに心地良く熟睡できたのだった。午前八時に床から出た。

晴美は明日の書道塾のことを考えている。

左右の二人を攻めていきたいと思うが、どのようにすればよいのか、考えれば考えるほど蜥蜴の尻尾がプツプツと切れるように妙案らしきものが浮かんでは、すぐにとぎれた。

名案より妙案の方が晴美には上手くいくように思えてならなかった。同じ障がい者同士なら何とかなるけれど、健常者は手強い気がするのだった。

まぁ、ええか。何とかなるさ。

そんな自棄っぱちな気持ちにもなった。

――こうして金曜日の朝を迎えた。いつものように母親が、「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。しかし、晴美の表情は暗く、沈んでいた。

「晴ちゃん。ファイト、ファイトよ」

母親は自転車でいく晴美の背中に激励の言葉を投げかけた。

〈そうだ。ファイト、ファイトだ。相手が健常者じゃなくて、障がい者だと思って同じように積極的に。こちらから待っていては決して友達などできない。自分から進んでいくのだ〉

この言葉を晴美は自分の胸の中で幾度も幾度も反芻した。

書道塾には、すでに生徒が揃っていた。芳野吉峰先生が「やあ、井意尾くん」と声を掛けてくれた。晴美は「おはようございます」と一礼をした。いつの間にか吃りは消えていた。デイケアでの成功が自分では気がつかないうちに自信となっていたのに違いない。

初日と同じ席についた。左側の女性を見た。そして右側の女性を見た。すでに二人は心を整えるように墨を磨っていた。晴美も道具箱から硯を出して磨り始めた。晴美は心を鎮め、頭の中の余分な考えを振り払って無心になった。