只管打坐(しかんたざ)という言葉がありますが、ここは只管逍遥ですね。ただただ歩き巡るのです。噴水の音を聞きながら、ただただ歩き続けるんですね。歩くことは考えることです。考えることは歩くことです。あるいはここへ来てただ坐る、噴水の音を聞きながらただ坐る。まさに只管打坐ですね。あるいはここへ来て本を読む、ただ本を読むんです。

ほら、見てください。いろんな人が、若い女性もいれば年配の女性もいて、みんな、思い思いに坐り、本を読んでおられます。何かお気づきになりませんか。そうです、西洋の修道院の庭です」

セイレイ嬢はぼくが何も言わず何も考えない前に、勝手に自分から問いに答えた。

「そうは思いませんか。白い四角い回廊と円柱、円柱と円柱の間の緩やかなアーチ、そして前庭の円形の池とその中の噴水。それらすべては中世以来の西洋のベネディクト派の修道院の中庭になぞらえて作られたものです。別世界です。壺中天です。天により近い庭なのです。ここは別に修道院ではありません。いや、むしろ、南島自体が一個の途方もなく大きな修道院なのかもしれません。たとえばローマの市内にあるバチカン市国のようなものかもしれません」

そう言って、セイレイ嬢はぼくの目の前を歩き出した。

五 蝶に聞け

ぼくたちはパスカルの庭を後にして、また別の中庭の見える場所にやって来た。先ほどの庭よりもはるかに広く、しかも同じような回廊が取り巻いていることは同じだった。そこは一種巨大なフラワーガーデンあるいはハーブガーデンのごときものに見えた。

バラやライラックや水仙や菖蒲やその他数知れない花々が、それぞれの場所を得て咲き誇り日を浴びて植えられてあるのである。それだけではない。それらの花に混じり、ハーブガーデンと称すべき薬草の園が何十列にも亘って葉を伸ばし群がり生え青々と日を浴びていたのである。

やがて牡丹園が見えてきた。何百株何千株あるか分からない広大な牡丹園である。いずれの株にも今を盛りに大輪の花を咲かせているのである。

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