第4章 一夫と泰子さんの生い立ち
3 私の生い立ち
そこで、出身大学(東京理科大学)の夜間部で取ることにしました。ただ、この当時、母方の祖父・三川一一が妻と三人の子どもを亡くし、「跡取りとして一夫を養子に欲しい」と言われ、私は小野姓から三川姓になっていました。
したがって、その書類も揃えなくてはならず、申請期間に間に合うかどうかギリギリの状態でした。
もう無理かと思ったりハラハラドキドキでしたが、無事に講義を受けることができ、ホッとしました。こうして私は、仕事が終わってから、中学校の教員免許に必要な単位を取りに大学に行くようになりました。地下鉄一本で通えたので助かりました。
大学の講義は、私にとって有意義なものでした。それは教える立場ではなく教えてもらう立場になったことで、学生時代以来久しぶりに生徒の気持ちが経験できたからでした。また、同時期に中学校開設の委員になり、どういった学校にするかという方針計画に携わりました。
そして一九九二年、二期生の担任となりました。
開設したての頃の城西中学校はクラス数も少ないので、三年間担任は持ち上がりでクラス替えをしない予定でした。
しかし、二クラスあった一期生は二年生になったときにある問題が起き、急遽クラス替えをすることになりました。それにともなって、二期生も二年生になるときにクラス替えをすることになったのでした。
そのことを三学期に二期生の学年全体に発表したら、大変なことになりました。学年の女子全員に、私は無視されるようになってしまいました。
彼女たちは、決して「クラス替えがいやだ」と言っているわけではなく「クラス替えをしないと言っていたのに、急に変更したこと」に対して、私たち教員を信頼できないと、怒っていたのでした。
ですから、二年生のクラス運営や学年運営は大変でした。それでも学園祭や修学旅行の準備等をするなかで、徐々に彼女たちとの仲が修復でき、三年生ではやっと通常の運営ができるようになってホッとしました。
その後の一九九六年、私は六期生の担任を受け持ちました。
そしてその子どもたちが三年生になり、いよいよ明日は卒業式ということでその準備をしていたときに、何とギックリ腰で腰を痛めてしまったのです。
休み休みしながら、何とか準備を頑張りましたがとうとう動けなくなり、同僚に言ってかかりつけの整体院に連れていってもらいました。しかし、そこでの治療でも回復できず、結局救急車で病院に搬送され、入院することになってしまいました。
私は残念なことに、大事な卒業式に担任として参列することができませんでした。
今でも、六期生の子どもたちには大変申しわけないことをしたと思っています。