「おかあさん」

月子は、その存在を小さな声に出してみた。夢の淵で、母の声を反芻し、抗い、その声も母の姿も声も打ち消すように瞼を閉じた。

二人で奇妙な虫を見て以来、白鳥さんからの連絡はなかった。そもそも、「かぎろひ」に誘われる時しか連絡はないのだけれど、それでも一日一回は、月子の心に白鳥さんが訪れる。

七月に入って、五日間はポスティングに集中することにする。夏の道が一段と白い。白鳥さんの家にも広告紙を入れたが、ポストには郵便物が溜まっていて留守のようだった。

抹茶色の家から、「ユモレスク」が静かに流れる。タッタラッタ、タッタラッタ、タッタラッタ、タッタラッタ。音階が上がったり下がったりしながら、のんびりと進むメロディ。過ぎ去った春の余韻が、流れてくる音色のどこかに残っていて、月子の足取りが軽くなる。

ポスティングが終わって、帰り道の公園のグラウンドで休んだ。藤棚のパーゴラの下にはベンチがあり、日陰で背中と脇の汗が引くのを待つ。地域のシニアクラブの人たちだろうか、数人の男女が時間を持て余すように隣のベンチでお喋りしている。

【前回の記事を読む】今、思い返してみると、月子姉ちゃんはおかあさんに一番かわいがられていたよね

 

【イチオシ記事】生まれたばかりの息子の足に違和感。門前払いを覚悟で病院に行くと…

【注目記事】「私の顔を返して、私の顔を返してよ!」鏡に映っていたのは、可愛いワンピースを着た化け物だった…