「ちょっと月子、この階の車すんごいよ」
駐車場の五階は、近隣のタワマンの駐車場に収まらない高級車が月極めで契約しているとかで、停めてある車の車種がすごかった。
ピカピカに磨きこまれた車体。スーパーカーの展示場の様相だ。月子はいくら眺めてもまったく興味が湧くことがなかったけれど、最近流行のイカつい国産ワゴン車も、道路と極限まで一体化させたようなボディのスーパーカーも、四つの車輪で駆動させ、地上を走ることには変わりなく、車の起源は同じなのに方向性が違えば進化というものはこうも違うものかと感心する。
「すごーい。私、ポルシェがいいなあ。乗ってみたいわあ」
妹は、タンジュンに。をつけなかった。ポルシェは、妹にとって単純ではないのだろう。
姉も月子も妹も、同じ遺伝子を持って同じような体型で街を歩いているけれど、分かち難い個体差がある。誰にとっても生きることは切実であり、同時に生き続けることは滑稽なことでもある。一点の曇りもない合理的な生活も人生も到達することは難しいけれど、それを求めて生きる自由はある。蜂も青虫も。妹も。月子だって。
夜ベッドに入って電気を消し目を閉じると、不意に呼ばれた。それは、はっきりと耳に響くように聞こえた。母が私を呼ぶ声だった。鍋の内側にこびりついた剥がし難い半固形の付着物のようにねっとりとしていた。
亡くなって一年経っても母の声が染みついているなんて自分でも呆れる。母の亡骸を見ても悲しみが湧いてこなかった。そのことを誰にも言えないもどかしさがある。母が亡くなって母に支配された心が解放されると思ったけれど容易くはなかった。
今日、姉と妹から自分が知らなかった母を知らされたが、月子にとって母とは何だったのだろう。愛情ってなんだろう。いつも、母に自分を理解してほしいと願っていた。自分は母を理解していただろうか。もっと違う角度から母を見られただろうか。もう少し長生きしてくれていたらわかり合えただろうか。