虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を食らうことから、啄木鳥(きつつき)戦法と名付けられた。信玄は、この作戦を了承し、実行に移した。

九月九日(旧暦)深夜、春日虎綱(高坂昌信)と馬場信房(ばばのぶふさ)率いる武田家別動隊一万二千の兵は、上杉軍を急襲するために、妻女山へ向かった。

そして、武田信玄率いる八千の本隊が、待ち伏せのため、八幡原に移動し布陣した。軍師山本勘助は、武田本陣にいながら、確信していた。

「この鶴翼 (かくよく)の陣(敵を包み込むため、広く間口を取った布陣)で、上杉軍を殲滅 (せんめつ)できる」

川中島に立ち込める深い霧の中、山本勘助は目を閉じてその時を待った。ところが、軍神と言われた上杉謙信は、武田の動きを全て見通していた。

自軍の一挙手一投足から、敵の細かな変化まで、恐るべき観察眼を持って、いつも謙信は戦いに臨んでいた。

昨日の夕方、海津城の炊煙量が増えている(ご飯を炊き、戦の準備をしている)様子を見た謙信は、武田の来襲を予見して、上杉軍勢に即座に妻女山を降りるように命じた。

そして、信玄本隊の目の前、八幡原に車懸 (くるまが)かりの陣を敷き、濃霧が晴れるのを待った。

さらに謙信は、妻女山を降りる時、一切物音を立てないようにと上杉軍勢に厳命した。この天才とも呼べる戦(いくさ)に対する神がかり的な才能が、人々に謙信を軍神と言わしめた。

謙信は、直感力に優れていた。

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