因みに武田家の弾正は、あと二人いて、攻め弾正と呼ばれる真田幸綱(さなだゆきつな)と保科正俊(ほしなまさとし)の槍弾正である。

上杉謙信は、この年の三月に北条の小田原城を攻め、帰ってきたばかりであった。しかし、信玄が信濃において攻勢の動きを強めていることを見て、謙信は同年八月、越後から再び軍を起こした。

上杉軍は、自軍の砦である善光寺(ぜんこうじ)を経由し、川中島の妻女山 (さいじょさん)に布陣した。

対する武田軍も謙信来襲の報を聞き、急ぎ川中島に参集した。そして、春日が守る海津城に全軍を入れ、妻女山の上杉軍と対峙した。

上杉軍の兵数は、善光寺に五千、妻女山に一万三千。一方、武田軍は、海津城に二万の軍勢を集めた。この第四次川中島の戦いは、謙信と信玄にとって一番の激戦になる。

信玄は、軍師の山本勘助の進言を用いて、決戦を挑むことに決めた。越後の龍と甲斐の虎がついに真っ向勝負する時が来た。

尋一は、斎藤に「龍虎の戦いを見てこい」と言われ、急ぎ川中島に向かった。謙信の右腕の武将斎藤は、越中 (えっちゅう)(富山)の抑えとして、越後で留守役を仰せつかっていた。

尋一にとって川中島は、行き倒れになり、斎藤に救われた因縁の場所であった。

八幡原(はちまんばら)の大激戦(川中島の戦い)

武田家の天才軍師である山本勘助は、このような作戦を立てた。まず、武田軍二万の兵を二手に分け、別動隊を編成する。

この別動隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、逃げる上杉軍を、八幡原に待ち伏せさせた武田本隊と挟撃するという作戦だった。