「篠原君、すぐに、白川郷に戻れ。でも、たぶん、もう伊島さんに取材することは出来ないだろう。陸軍中野学校出身っていうのはな、君が何者かなんてことは、みんなわかって話したんだよ。選り抜きのスパイが、一生に一回の告白をしたんだ。たぶん、君がしばらく白川郷に戻ってこないこともわかっていただろう。
よそ者の新聞記者がいつからいつまで河田さんの合掌にいるかなんて、スパイじゃなくたって、村中、知っているさ。さて、告白したあと、元戦犯のスパイならば、どうするか? とにかく今すぐ、白川郷に戻るんだ」
緑川に言われて、篠原は、「すみません」叫ぶように言うと、車に飛び乗った。水森部長が緑川のことを、もっとも尊敬する記者だと言っていたが、さすがに緑川の指摘は鋭かった。
そうなのだ、陸軍中野学校出身者の元戦犯が、相手がどこの誰かも知らずに身の上話などするわけがなかったのだ。どうしてそんなことに気が付かなかったのか。
篠原は焦りに焦って、夜の山道を猛スピードで車を飛ばした。しかし、白川郷に着いたのは真夜中で、河田の母屋の公開合掌の家は真っ暗で、みんな寝ているようだった。
篠原は貸してもらっている方の合掌に行ってみた。そちらも真っ暗だったが、するすると玄関の板戸が動いて、中に入れた。鍵が付いていないことを初めてありがたいと思った。
【前回の記事を読む】白川郷では塩硝造りについてオープンに語られない。それは一体なぜなのだろうか?