忍びの者
一
武蔵が播州・龍野で剣術修行を積んでいた頃、慶長五年(一六〇〇)、中央では大きな動乱の兆しが現れていた。新年早々、豊臣秀頼が伏見城を出て大坂城に入り、これを庇護するかのように前田利家も大坂城に入城した。
その前田利家が三月三日に亡くなると、一気に情勢が動き、豊臣恩顧の七将による石田三成襲撃事件が発生した。その結果、石田三成は奉行職を退き、佐和山城に隠居することとなった。
一方、徳川家康は、向島の自邸から伏見城西の丸に入り、世間からは天下殿と見られるようになった。
家康は、九月重陽の賀への出席のため大坂城に入城しようとする際に、五奉行の一人増田長盛(ましたながもり)から『家康暗殺の謀議』のある旨を告げられた。
これに浅野長政、土方雄久(ひじかたかつひさ)、大野治長(はるなが)、そして前田利長の四人が関わっているとされ、家康はこれらの者に対し、それぞれ処分や対応を済ませた後、北政所に大坂城西の丸を空けてもらい、その空いた西の丸に入った。
そして家康は、再三の上洛の要請に応じない上杉景勝を天下(豊臣政権)の静謐(せいひつ)を妨げる者と断罪し、豊臣秀頼に代わり上杉討伐に諸将を率いて出陣することとなり、情勢は風雲急を告げていた。
京の都、洛北の裏通りに薬華庵(やくかあん)という小さな薬屋がある。薬師(くすし)の道庵(どうあん)(本名・与兵衛(よへえ))という者がその店の主人であり幾人かの小者と住んでいる。甲賀(こうか)衆の道庵は長くこの薬華庵の主を務めており、風貌も老薬師そのものだった。
だが、薬の商いが本来の目的ではない。元々薬華庵が設けられた当初、ここは御師(おし)、坊人(ぼうじん)などと呼ばれ、神人(じにん)としてお札と萬金丹(まんきんたん)などの薬を持って全国を歩き回る山伏の繋ぎのアジトであった。甲賀衆である山伏の役目は諜報活動であり、全国の情報収集をすることだった。
【前回の記事を読む】山岳修験道の有名な行場「三川権現」。廻国修行の目的である秋山新左衛門と偶然出会い、立ち合いをすることとなる武蔵