知世は、ブルブルと首を横に振る。

「お客様も従業員も皆避難しました。少し火傷をしたり、喉を傷めたりした人もいるけど、全員無事です。だけど、おじい様が建てた旅館が全部燃えてしまって……申し訳なくて」と、また涙が込み上げてくる知世。

高志は黙って知世の肩を抱き寄せるしかなかった。その時、福井市にいるはずの茜屋の生花指南役の姉川和香が、息を切らして駆け付け、高志の両腕にすがりついた。

「社長、茜屋の看板を守って! あの看板さえあればまた旅館ができるから! 早く!」

はっと思い茜屋を見やると、丁度玄関に掛けられた透かし彫りの看板に、火の手が迫ろうとしていた。上から大量の火の粉が降り掛かる。

「建物はもうどうしようもないが、せめて茜屋の看板を守ろう!」と高志が決意して駆け出し、立入禁止テープを乗り越え、看板に手を掛けた。

「おーい。この看板を外すぞ! 手伝ってくれ!」

従業員たちも「はい!」とすぐに看板に駆け寄り、火の粉や消防の水しぶきを浴びながら取り外した。

高志が息を切らしながら「ハァ、ハァ、先生、看板は大丈夫です。全く燃えていません。ほらこの通り……」と微笑むと、和香は助け出された看板に身を寄せて、手で撫でるようにして、

「あぁ良かった。この看板は先々代が川端龍子先生に揮毫をお願いして、池田片鐵先生が神代杉に彫った物よ。もう二度と作り直しが利かない茜屋の宝物よ……これだけでも助かって本当に良かった」

看板に手を当てる高志と知世の目には、涙が光っている。長男の久紀も、知らせを聞いて神戸から急遽帰ってきた。「覚悟して帰ってこい」という第一報を受けて電車に飛び乗り、友人の両親が芦原温泉駅まで迎えに来てくれたのだった。