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志賀直哉の文章は、空白が美しいという。
確かにどのページを開いても、文字がびっしり詰まっていることはなく、程良い空間が開けている。短い的確な文章の連なり故の空間美といえるものかもしれない。これらの暗唱に耐える短文は、今後出ないかもしれない。
その正反対が、接続助詞を多用する「連用接続手法」により重たいリズムの長い文章を綴る埴谷雄高であろう。
アナーキスト特有の夢を暗い夜空に向かって語るには、このうねうねとした接続文と長文が必要なのであろう。
気難しい男二人の個性は不滅である。私は、両極端のどちらも好きだ。
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日本現代詩の先頭ランナーだったのは、紛れもなくダダイスト高橋新吉である。萩原朔太郎・山村暮鳥より一回りほど年下である。
皿という詩では、いきなり「皿皿皿……」という言葉が縦に28語(組版ごとに文字数が違う)連なり、視覚的に、洗わねばならない汚れた山積みの皿の様を連想させるという、現代詩の扉を開く画期的なフレーズであった。この詩を知り、詩にできることの多さを知った若者が多かったことは想像に難くない。「扉を開く」のは誰にでもできることではない。
【前回の記事を読む】「人たらし」「女たらし」だった太宰治。青春時代、彼にとりつかれる者は多かった