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サッカーのゴールは、夫々の民族が持つ「敵の仕留め方」「獲物の仕留め方」の民族性が出ているような気がする。

狩猟民族、農耕民族、牧畜民族……生き残りをかけた瞬発衝動に違いがあって、ある意味当然である。

スポーツであるがため、それが「美学」に見えるだけの話である。

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『銀河鉄道の夜』が数回書き直されなお未完であったことは、作者が人間関係はどうあるべきか、命をかけて悩み、それでも当時の若さでは解答が見付け出せなかったことを意味する。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)と信じる彼は、特定の宗教教団に入信し、独特の教義の教宣活動にも従事し、この信徒として生涯を終えた、37歳の若さである。墓もその教団の傍らにある。

彼の資料館・ファン・研究者は、このことをひた隠しにされるが、悩み抜いて早逝した彼だからこそ、根っこのところを明らかにすることが、彼の全体像理解に資するものと思われる。

ノヴァーリスの『青い花』も、29歳で夭折した彼の、同じく未完の作品である。

二人の未完作品には、未完こその価値がある。完成させないでおこうという、天の意志が働いたように思えてならない。

ただ、私たちは、早世・夭折の世界の限界を知らないわけではない。天才といえども、また早熟故に見えたであろう特別の世界があったにしろ、出生から「そこまで」の限界を背負うことになる。40代、50代、60代、70代、見える景色も紡がれる思いも驚くほど変わる。

早世の天才は多いが、その年までのそこまでの知見であるという、別の眼鏡や複眼の冷めた目を持つのも必要であろう。一方的な天才論や贔屓(ひいき)の引き倒しであってはならない(この項は、拙著『そば読本』の内容と一部重複する。それくらいもう一度触れたいテーマであるため、敢えて再録に及んだ)。