思いがけないこと
地下鉄の階段を上がるとまだ明るかった。
六時、美智子は腕時計で確かめた。レストラン「門や」は一つ裏路地、足元に小さな木の看板が立っているだけの店だった。扉を細く開けると一番奥のテーブルに田村の姿があった。
先週、田村が花屋に来た。いつものように花を買いに来たのだが、思いがけない申し出があった。
「一緒に食事をしたいのですが。デートに誘っているというわけではないのです。仕事の話、相談というかお願いというか、少し長くなるので落ち着いてと考えて」
承知する理由も断る理由もなく途方にくれた。早くその場を切り抜けたい一心でうなずくと、店の場所を書いたメモ用紙に田村の携帯の番号を書き加えて手渡されたのだ。
都合の良い日にちが二つ書かれていて、美智子は早い方を言った。
「門や」の店内は静かな音楽が流れていた。
苦手な食べ物はありますかと聞かれ、美智子が首を振ると、では任せてもらっても良いですねと言った。大きなメニューを広げて、ウェイターと話しながら料理を選んだ。
二冊目のメニューを広げたので、いったいどれだけ食べるのだろうと思ったが、そちらは飲み物のリストが別にあるのだと分かった。食事が始まると田村はすぐに用件を切り出した。
会社で今度本格的に園芸部門を広げることになった。本社の研究所で花の品種改良に成功したのだ。誰にでも育てやすく水を切らさなければ初夏から秋口まで花が咲き続ける。液体肥料や扱いやすい土も一緒に売り出す。
それで実際に植物を育てられる人を探しているのだという。美智子にスタッフとして加わってもらえないかと田村は言った。
美智子は驚いて話をさえぎった。自分は田舎で田んぼや畑を手伝っていただけで何も難しいことは分からないからと。
しかし田村はそういう人がほしいのだ、農学部出身とか園芸科卒という人は雇えるのだが実践が伴わない。実際に花を育てたり畑を耕したりした人でないと、何かの時に、とっさの判断がつかないのだと。すぐ返事はいらないので考えて置いてくださいと、温かい笑顔で話を打ち切った。
かものロースト、ひらめのムニエルといわれたのに美智子は味が分からなくなった。
安定した仕事があれば、東京に残っても不安はなくなる。私が独立できたら……それも新しい花の開発なんて……
その後も田村の話を聞いているのだが心はふわりと漂っていた。最後のコーヒーが出て、美智子はふっと正面から田村を見た。紺地に色とりどりの小さな模様が並んでいるネクタイをしていた。
「まあかわいい、象が並んでるんですね」
美智子はよく見ようとして身を乗り出した。
「今、気がついたのですか。話題に困ったらこのネクタイの話をしようと思ったのに」
田村はおかしそうに美智子を見つめた。
田村に見つめられただけで、胸から首の辺りがふわっと熱くなった。
少しワインを飲み過ぎたようだ……
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