ある程度の弁明は予想できる。1つは、時計全体が歯車と同じ比率で縮むのだから、動きの正常性は保たれる、というもの。それに対しては、いびつな円形の時計にいびつな円形の歯車を仕込んだところで動きはしないと答える。これはさすがに論外であると言えるだろう。
多少厄介な2つめの方は、ものが縮むとは空間自体の縮みの反映なのだから、時計にとって真円であるものが傍観者の私にとっていびつな円であることと両立するのである、というもの。では、私にとっていびつな円であることを認めてくれるのだ。
ならば、残念ながら私のいる宇宙ではすべて同じ向きに長軸をそろえたいびつな円形の歯車の組み合わせで時計を作ることはできないし、歯車を回転させてなお縦長のままであることも不可能だ、と答えることにしよう。
ただ、抽象的議論の難しいところで、おそらくこの簡単明瞭な説明は多くの人にとって明白すぎるゆえにかえって幼稚であると片付けられてしまうかもしれない。
この場合の相対論的な見方をもう少し小難しく言い直すなら、私の持つ時計が他人の目から見ていびつであることは、何かの確定的な、できれば力学上の意味を持ち得るということである。
まず、他人の目で見てのいびつさが私の持つ時計にとって無意味であることは明らかだろう。
それは実は、周りに立っている人たちがこれを色々な角度から見て、長方形に見えたり、ラグビーボールのように見えたりすることが、この時計の進み方に変化を与えないことと同じなのだが、この意見は素直に了解しにくいと思う。相対論はもう少し深い意図のもとに「いびつに見える」と言っているように感じるからだ。
実際のところ、周りの人たちが時計をいろんな形に見るということに、時計自体のさまざまな物理量の変化を伴うということは意図されていない。相対論は明らかに物理量の変化を要求している。
時間が遅く進むように見える、縮んで見える、という主張は、単純に見るということではなく、明らかに物理的な事実関係に置くということを意味する。だからこそ誰も目撃できないビッグバンは実際に起きたのであり、まだ発見されないブラックホールもブラックホールであるのだ。いずれも、理論により導かれた事実である
(ここではまだ形而上学としての事実ということを考えず、単純な科学的主張ととらえておく。つまり人間のように、それをビッグバンと認識する存在が登場するまでは、ビッグバンそのものも起きてはいなかった、とする理論もあり得るのだ。冗談みたいな話だが、こういうところまで検討する必要があるかもしれないと思う程度には、相対論も空想的なのではないか)。
【前回の記事を読む】「宇宙船が縮んだ形になったら、それはまともに飛ぶはずがない」。ではなぜものが縮む現象が支持されているのだろうか?