第1部 相対論における空間の問題

4 いわゆるローレンツ収縮がありうるとしたら

なぜ2つの独立した世界があるのか。何だか狐につままれたような、もやもやの残る結論ではないか。

もとはと言えば、宇宙船が縮み、そうであるなら内部で灯される明かりから放たれる光はとても進みが遅いはずである、という仮定から始まったことだった。この仮定は相対論の語る事実として間違いのないところである。では確かにそちら側の光は遅いのだ。

〝それでは全くつながりのない2つの世界が存在することになるではないか。だからこそ光速度不変の原理が存在する。2つの世界は光速度が等しいことによってつながるのであり、そこに変換式が存在する根拠があるのだ〟

……1つ理屈を考えるなら、そういうことになるのかもしれない。ほかの形もあり得るのだろう。もちろんこの時点で、はっきりとその理屈は間違いであり、明白なでたらめであると私は断定するが、案外そうは捉えない人が多いことも事実だ。

相対論に批判的な人の著書を何冊も読んできて、基準系とそれに対して運動状態にある系とを図示し、座標が違うのだから1本の線で結んではいけないとか、共通の計算式は成り立たないとか、丁寧に説明してあるものをいくつか見たが、あまり納得は得られていないようだ。

間違っていると思いつつも、私は相対論支持者の言い分がわからないでもない。1本の線で結んではいけないと言われても、そもそも1本の線で結ぶという主張なのだし、計算式は成り立たないと言うが、それをちゃんと提供するのが相対論ではないか、ということだ。

エレベータの例も列車の例も、外と連続した空間であるからこそ起きる現象だった。そこを閉鎖空間ならではの出来事と誤解し、もっともらしい語りを用意する。わかってしまえば単純極まりない子供だましの理屈にすぎない。

ただ、宇宙船の例はもう1段複雑であり、内部が閉鎖空間であることを超えた、奇妙な逆転が生じている。つまり外部の傍観者の方も閉鎖空間に置かれ、2つの世界が並立している。

それぞれが無矛盾であれば、それで納得してしまうことは当然あり得るだろう。エレベータと列車の、2つの思考実験の場合には、内部が独立した空間であることは恣意的な前提である。