第二章 カナダ赴任
一五三四年、フランスのフランソワ一世がジャック・カルティエを派遣し、セントローレンス川流域を探検させ、カルティエがこの地を「カナダ」と名付けた。
セントローレンス川流域に住んでいた先住民、イロコイ族たちが使っていた「カナタ」(村落の意味)に由来する言葉である。そして、フランスはこの地をフランス領とすると宣言した。
一六○三年、フランスのアンリ四世の時にこの地を植民地とした。
一六○八年、サミュエル・ド・シャンブランがセントローレンス川中流域に、「ケベック」を創設し、ヌーヴェル・フランス(新しいフランス)として、植民地の経営を開始した。
「ケベック」の由来は、この辺りに住んでいた先住民アルゴンキン族の言葉で「川が狭くなっているところ」を意味する。ダイアモンド岬と対岸のレヴィとが接近し、狭くなっている辺りをケベックと彼らは呼んでいた。
ここを交易の場所と定め、この辺りで主にインディアンとの毛皮の交易を始めた。
その頃、ヨーロッパでは帽子の材料としてビーバーの毛皮が用いられていたので高値で売れた。お陰でビーバーが激減したが、今は保護されてその数は増えつつある。
アメリカ大陸に人類が渡って来たのは、一万五千年より前と言われている。そして瞬く間に南北アメリカに人類は広がっていった。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時、南北アメリカ大陸合わせて九〇〇〇万人ほどの先住民が住んでいたと推定されている。
しかし、急激なヨーロッパの世界進出により、先住民の人口は、天然痘などの感染症や侵略戦争に巻き込まれて、激減してしまった。
南米では最後の先住民国家であるインカ帝国の滅亡により、一万年以上続いたアンデス文明は終焉を迎えた。インカ帝国の当時の様子は、マチュピチュ遺跡などで知ることができる。
コロンブスはアメリカ大陸をインドだと思い込み、彼らをインディアンと呼んだが、今ではネイティブアメリカンと呼ばれている。
一六二〇年頃には、アメリカ大陸の人口は六〇万人にまで激減していた。ヨーロッパでも十八世紀までの百年間に天然痘などで六〇〇〇万人が亡くなったと推定されている。この頃は世界中が感染症との闘いであった。
「COVID̶19」で世界中が感染の危機に陥り、世界中の動きが滞っている現在、当時の人々の危機感や恐怖は想像できるかもしれない。当時はマスクや防護服なども無く、感染症を防ぐ手立ては無かったに違いない。ワクチンなどで予防もできずに、すべてが生きる希望を失い死に絶えていくばかりだっただろう。
一六四二年、フランスはモントリオールに拠点を作り、ルイ十四世の時に、王の直轄領とした。五大湖地方からミシシッピ川流域にまで植民地を広げ、ルイ十四世にちなんでルイジアナと命名した。