この親密な霊の関係性を持つことが、「信じる」ことの本質です。そして本質だからこそ、信仰の確信・根拠になり得るのです。
そしてこの関係性はまた、人の自由意志による「契約の論理性」であり、救いの基礎(第二段階)なのです。ここからは「霊の知識の学び」をしなくてはなりません。
*厳密に血の契約の成立とするには、聖餐式によってその意義を正しく受け取らなければなりません。ここで信じない者は、その自由意志のままに救われない者に留まります。
●多くの人々(全人類)の中から、自分の自由意志でイエス・キリストを自分の救い主として受け入れた人々が、個々に神様から「神の義」とされます。すなわち「生まれ変わり」をした人々がクリスチャンと呼ばれるのです。その状態の自己評価が「第2の義」です。
ここからは、神様と各個人との個別の契約関係となります。そしてその関係は、その個人が死ぬまで続く「血の契約」であり、死後には子孫にまで契約の恩恵が及ぶものです。
現代のクリスチャンが、「アブラハムの子孫」として祝福を受けられるのは、それが「血の契約」の恩恵だからなのです(「ガラテ」3:7~29節)。
ここで、イエス・キリストの働き「十字架での死と復活」の意義を、契約の観点からまとめてみましょう。
キリスト教会の多くが、イエス・キリストの果たした「血の贖い=罪の赦し」を、クリスチャンだけに限定した考えを持っていますが、それは、2段階の救いの計画を、ごちゃごちゃのままひとかたまりに捉えているためであり、間違った捉え方・霊的幼児なのです。
「割礼」という旧約時代のイスラエル民族(選ばれた者)だけの「血の契約」に代わるものとして、神様が人と新しく契約を結ぶには、人々が神様に対して罪を持っていない状態でなければならず、そのために神様は、全人類(すべての人)の身代わりとして、イエス・キリストに血を流させ死なせました。