第3章  神様が用いる手段は「血の契約」 

神様の意図(3段階の救いの計画)では、まず第一段階でイエス・キリストが全人類の身代わりとなって、十字架に掛かって死んだのであって、それはクリスチャンだけが原罪を贖われたのではなく、

ノンクリスチャンをも、神様を否定する者すら包含しているという、正しい認識を持たないと、血の契約そのものの理解をゆがめてしまいます。

この論理の根拠は、神様の性質が「公平・公正で義な方」だからです。だれ一人として、その「自由意志の行使」ができない状態であってはならないから、神様はまず第一段階で、すべての人々を「平等に原罪を取り除いて」、サタンの支配から贖い出しておかねばならないのです。

これが被造物である全人類に対する、神様の公正な憐れみの行使です。だから多くのクリスチャンが、ノンクリスチャンを「罪人」と呼び、差別的意識を見せるのはとんでもない間違いです。

神様が「罪」と定めるのは、その人の自由意志によって「聖霊を冒涜すること(「マタイ」12:31~32節)、具体的にはイエス・キリストを救い主と認めないことだけですが、それはその人が死ぬその瞬間まで、心変わりする可能性があるから、今の時点で断罪してはならないからです。

この真理は、「ルカ」23:40~43節で明らかにされている通り、主イエスと共に十字架に付けられた犯罪人の一人が、刑死する直前に十字架の上で救われていることで理解できます。

「ルカ」23:43イエスは彼に言われた。「断言して、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」

犯罪人は人間としては、犯した罪の償い(刑死)をしなければならないのですが、霊は信仰によって、告白した瞬間に救われたことを、主イエスは保証しています。

この犯罪人の例は、契約の重要な要件「自由意志による」ことを、いかに尊重しているかの一面を教えています。

それならば、クリスチャンが救われるとはどういうことなのでしょうか? 第一段階において、イエス・キリストの十字架の死によって罪が贖われ、サタンの支配下(罪=神様と関係が切れていること)から全人類が解放されたので、だれでも人は神様の前に立って、自分の自由意志を表明できるようになりました。

そしてその人のどんな言い分でも神様は聞き入れてくれるようになった、と述べました(神である主)。