「身代守(しんだいもり)」
結局、お幸は意地で涙を堪え続けた。しかし、源次郎達の姿が見えなくなり、母親代わりの乳母に慰められて、堪えきれなくなったのだろう。わああんという泣き声が遠くから聞えた。
「可哀想な事をしてしまったようだ。面目ない」
そういって肩を落とした源次郎を正助は苦笑いしながら見つめた。お幸が源次郎の気を引こうとして失敗するのは、これが初めてではなかった。八つも年下の子供を源次郎が相手にするはずもない。
お幸とて身分違いだと分かっている。それに、源次郎は次男坊。たとえ、お幸が武家の養女になって源次郎に嫁いだとしても、暮らしが成り立たない。逆に源次郎が家を捨てたとしてもお嬢様育ちのお幸に貧乏な浪人暮らしができるはずもない。
なにより、源次郎がお幸を嫁にする気がないのだから、どうしようもない。お幸の恋は叶わない夢なのだ。それと同じように、源次郎のお蓮への想いも叶わない。
(ままならないものだな)
清三郎の心の中に、幼馴染の松井早苗の姿が浮かんだ。凛とした立ち姿が美しい早苗は清三郎と同じ十六だ。一、二年もすれば他家に嫁いでいくだろう。そうすれば言葉を交わすどころか、その姿を目にすることさえ、叶わない。
「清三郎に嫁がこなかったら早苗が嫁になってあげる」
幼いころのその言葉を憶えているが、そう聞くことは決してできないのだ。時々、花嫁修業の稽古事に通う早苗を道場の帰りに遠くから見かけることがあるが、それだけだ。言葉など交わせない。男女七歳にして席を同じうせず。
この教えは武家社会に根付いている。武家の娘が男と気軽に言葉を交わすなどあってはならないのだ。もう何年も早苗の声を清三郎は聞いていなかった。
周囲がすっかり暗くなり、桝井屋から提灯を借りて、清三郎と源次郎は家路に着いた。桝井屋の店の者は心得たもので、桝井屋の名が入っている提灯ではなく、無地の提灯を差し出す。
井口家の者に桝井屋に来ていたことを隠すためだ。道場仲間の家に遊びに行ったと言っても怪しまれるだろうが、証がなければなんとでも言い訳ができる。
桝井屋から借りた提灯片手に屋敷の門前までたどり着くと、井口家の用人、柳田左内が待ち構えていた。先祖代々、井口家に仕えてきた左内は父や長兄には従順なのだが、清三郎と源次郎には遠慮があまりない。
「源次郎様、清三郎様、先代様の法事の席を抜け出して何処におられたのですか」
近所の目を気にして小声で詰め寄ってくるが、本当は大声で怒鳴りたい気分なのであろう。顔が真っ赤だ。