その翌年の秋に、娘が生まれた。娘を彩と名付けた。一回流産した後の子供で、女の子が欲しいと常々言っていたため、娘が生まれた時は大喜びだった。私は、元気に明るく育ってくれれば、それだけでいいと願っていた。
千恵は、娘を幼少の頃より、千葉県からわざわざ都内の私立幼稚園に通わせ、いろいろな習い事をさせてきた。
娘の教育は、全て任せていた。千恵と私とでは、生まれも育った環境も全く異なり、考え方も違う。娘と長い時間関わっているのは母親であり、私は千恵の言動にはほとんど口を挟まなかった。
「私って、良妻賢母でしょ?」と鼻に付く言い方だったが、
「そうだね、いつもご苦労様」と軽く受け答えしていた。私は聞き役であり、千恵が無理を言った時や娘と言い争っている時ぐらいしか口を出さなかった。
娘の成長の過程が分かるようにと、誕生から中学生になるまで、毎年誕生月にスタジオで写真を撮っては額に入れ、壁に飾っていた。
千恵は「こうやって生誕の時から見ると成長の過程がよく分かるよね」と言っていた。私が幼少の頃は、自宅にカメラなどというものはなく、写真を撮ってもらった記憶がない。
その頃の写真を白黒の写真で二、三枚見たことがあるが、それもどこかにいってしまった。娘の額に飾ってある写真を見比べてみると確かに成長がよく分かる。
千恵は口癖のように、「彩ちゃんが結婚してパパと二人きりになった後、老後の楽しみのために、写真はいっぱい撮っておくんだ」と言っていた。
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次回更新は8月13日(火)、16時の予定です。