「身代守(しんだいもり)」

しっかりとした番頭や手代がいれば婿が商売をする必要は無い。武家と姻戚関係になって、幕府の役人のだれそれとの縁をツテに儲けよう、商人仲間から一目置かれよう、そう考えるのが普通だ。

なるほど、井口家は腐っても三河以来の家柄。祖父は出世しなかったが、祖母の実家深山家は勘定吟味改役を務めており、役目柄、老中や大奥とも繋がりがあった。そのわずかばかりの縁を枡井屋は買ったのだ。

しかし、叔父には天賦の商才があったらしい。深山家が懇意にしていた大奥の重鎮との縁を桝井屋と結び付け、大奥お出入りの呉服屋に成り上がり、それで儲けた金を元手に米相場に手を出し、これまた大儲け、廻船問屋の株を買い、北前船の荷を商い莫大な富を築いた。

幕府にも金を貸すほどの豪商になった叔父には、下手な武家よりも力がある。先代将軍の時代から、厚く重用され、破竹の勢いで出世を遂げている田沼意次様とも昵懇の仲となれば、叔父に取り入ろうとする者が絶えないのも頷ける。

その証拠に、父や兄が先ほどまで頭を下げていた人々は皆、叔父の機嫌を窺い始めた。主役の叔父が登場してしまえば、客の多くにとって、叔父に会う口実でしかない祖父の法事など、終わったも同然だ。

三男坊が居なくなっても誰も気づくまい。清三郎は次男と示し合わせてその場を逃げ出した。

「こんな所においででしたか」

清三郎と次兄が堅苦しい羽織袴を着替え、家の裏口からこっそりと抜け出して来たのを見計らったように声をかけたのは、従兄の桝井屋正助であった。

身に着けている紺縞の着物は一見すると地味に見えるが、菜の花色の華やかな角帯と合わせるとなんとも粋な組み合わせだ。呉服屋の跡取りだけあって、正助は中々の洒落者であった。

叔父によく似た端正な顔立ちも相まって若い娘からの恋文が絶えないというのだから、羨ましい限りである。

「なんだ、堅苦しい言葉など使いよって、正助、我らに気づかいは不要だ」

源次郎は正助の肩を叩きながらカラカラと笑う。源次郎も正助ほどではないが、亡き母、佳代に似た優し気な面差しに夢中になる女子が多々いる。二人で並んでいる姿は絵になるものだ。

一方、清三郎は不細工ではないが、男前とは言いがたい。背は高い方だし、体も鍛えているが女子とは縁遠い。パッとしない面立ちだと自分でも思う。