例えば、紗津季が同僚の看護師と話をしているときに、背後から事務長がいきなり現れることもあり、気がつくと、正面から顔を合わせることもあった。このときは、変にあわてては逆に疑念を持たれても困るので、もはやこれまでと腹を決めて、堂々と正面から目を見て挨拶をした。
すると、事務長も何の躊躇もなく挨拶を返してそのまま行ってしまった。その後も何度かそのようなことがあり、紗津季は確信した。看護師として勤務しているときは、理事長であることに気づかれることがないと。
服と髪型が違う程度ではあっても、もともと別人と決めてかかっている相手にとって、これを同一人物と認識することはなかなか困難なことのようだ。
紗津季は、アメリカの、眼鏡とスーツだけの違いで超人に変身するスーパーヒーローの物語や、日本では、将軍徳川吉宗が町中では旗本になっていた話などを思い出し、なるほど人の見方なんてそんなものかと改めて感心したのだ。この設定自体が単なる創作で、それほど説得力のあるものとは思われないが、紗津季の中では大いに参考になったようだ。
そしていつしか紗津季は、看護師の姿で堂々と事務長にも病院長にも会うことができるようになった。
紗津季は、看護師としての出勤日でないときに、理事会を入れるようにして、勤務の日程が重ならないようにしていた。とにかくこの兼職、つまり自分がギャッパーであることがばれないようにと、細心の注意を払っていたのである。
ところがあるとき、紗津季が理事長として理事会に出席していたときに、看護師長から携帯に連絡が入った。「救急患者が重なり、看護師が足りなくなった。どうしても助けてほしい。急遽、出て欲しい」とのことだった。
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