東大寺(とうだいじ)

創建は奈良時代中頃。聖武天皇(しょうむてんのう)の勅願(ちょくがん)によって大仏が造営され、全国に置かれた国分寺の総本山として建立された。が、中世、兵火などで多くの伽藍を焼失し、今の大仏殿は江戸時代に再建されたものである。

まず北門より戒壇院に入る。戒壇院は鑑真来朝を機に建立され、当時は多くの伽藍を有していたが、すべて火災によって焼失。今の戒壇堂も江戸時代に建てられたものである。

戒壇堂の中尊は釈迦如来と多宝如来、ともに多宝塔に祀られている。そして持国天、増長天、広目天、多聞天の四天王が忿怒の形相で邪鬼を踏みつけて多宝塔を護り固める。

邪鬼が踏みつけられるのは、四天王が邪鬼の邪悪な部分を押さえつけているため、あるいは邪鬼が煩悩を抱えているから、など諸説あるらしい。

邪鬼はどこかほほえましいが、四天王に踏み潰つぶされて歪んだ顔を見ると、そんなに強く踏みつけなくても、と同情してしまう。

戒壇院を出て、静かな裏参道を法華堂(ほっけどう)(国宝)に向かう。法華堂は三月堂ともいわれ、東大寺最古の奈良時代建造物という。二月堂(国宝)や法華堂まで来れば修学旅行生の団体をはじめ、大勢の観光客で賑わうが、法華堂に参拝する人は少なく、堂内は静かである。

堂内には本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのうぼさつ)が梵天、帝釈天を従えて立ち、金剛力士(こんごうりきし) 、四天王がその周りを固めている。これらはすべて奈良時代の国宝である。

金剛力士は二つの王の意で仁王と呼ばれ、山門では右に阿形(あぎょう)、左に吽形(うんぎょう)が配置されるが、ここは左右が逆になっている。なぜだろう。

厨子の中の執金剛神(しゅこんごうじん)は年一回しか開扉されない秘仏で、奈良時代の仏像としては異例なほど金箔や彩色が残る貴重な仏像という。

金堂大仏殿(だいぶつでん)(国宝)は団体入口が入場規制され、修学旅行生の団体が長い列を成し、大仏殿に入れば人で混雑している。

大仏殿の真正面にある八角燈籠(はっかくとうろう)は国宝で優美な天平模様を施し、楽器を奏でる音声菩薩(おんじょうぼさつ)が浮き彫りにされている。

大仏殿内には奈良大仏といわれる本尊盧舎那仏が、右に虚空蔵菩薩、左に如意輪観音を従え坐っている。四天王が4体揃っていない。

尋ねてみれば、広目天・多聞天は江戸時代に復興されたが、持国天・増長天は財政難で未完成に終わり、頭部のみが大仏殿内に保管されているという。今後造像する計画はあるかと尋ねたら、あるともないとも言われなかった。

大仏殿を出ても観光客で溢れ返っている。辺りに中国語が飛び交っている。大仏殿でもそうだった。ここはどこなのだろうか。日本人は修学旅行の小学生や中学生だけである。人や鹿を縫(ぬ)うように南大門(国宝)を抜け、東大寺を出る。

この奈良の旅はいよいよ終わりに近づく。後は興福寺国宝館を残すだけとなった。しかし人混みで疲れ、ひとまず休憩とする。茶粥(ちゃがゆ)御膳をいただき一息入れてから国宝館に向かう。