次の転職先は、人材紹介会社の知人から紹介されました。特にハローワークに通うこともなく、新しい会社に就職が決まりました。当時は池袋のサンシャイン・シティに本社がある外資系コンピューター会社の日本法人でした。

よく「外資系企業は、結果を出さないと簡単にやめさせられる」と言われており、多少の不安を抱えながらも、新しい仕事に就くことができました。私にとって、その後の人生の大きな飛躍をする機会となりました。

会社は、日本企業と同様、あるいは、それ以上に家族的な雰囲気がありました。米国本社はボストン郊外にあり、世界で第2位の規模の企業でした。

会社は創業以来30年以上が経過していましたが、社風は「アントレプレナー」(起業家精神)が未だ生きていました。

毎年大幅な組織替えが試みられ、技術集団の会社で、世界をリードするような新技術が生まれていました。

ボストン郊外にある本社の建物は、南北戦争時の織物工場跡を改築したものでした。社内は多くの部屋に分かれていて、自分のいる場所を説明するのに、建物の柱番号が番地として印されており、それで識別されるほど複雑な内部でした。床は板張りでした。

具体的な仕事は、国内の上司に報告を上げますが、海外の同じ部署の担当者と直接仕事を進めることもあり、電話でのミーティングが日本の深夜になることもありました。