第二章 私の学生期~家住期

22歳までの「学生期(がくしょうき)」 勉学に励む

1960年代の日本は、既に「高度経済成長期」にありましたが、高校への進学率は半数程度で、大学進学率は短大を含めても1割程度でした。

特に東北地方の義務教育を修了した15歳は、仕事を求めて集団で都会へ働きに出る「集団就職」を希望して、都会に夢を持って就職をしました。この年齢の若年労働者は当時「金の卵」として大切にされました。

学校を卒業した15歳達は臨時列車で上野駅の18番ホームに到着し、そこからそれぞれの就職先に引率されて行きました。

そのような時代背景の中で、当然、高校を卒業したら、銀行か、会社に就職することを考えていましたが、小学校の修学旅行の時、横浜港の埠頭でのバスガイドさんの言葉「誰か将来この港から外国へ行く人が出るかもしれませんね」を思い出しました。当時は、船が海外渡航の主流でした。

その言葉を聞いていた12歳の少年の記憶を思い出しました。あの時、心ときめいた自分が蘇ってきました。「将来自分は、海外に行って、英語を使って仕事をしたい」という「憧れ」が大きく膨らんできました。

「そのためには、大学へ行って勉強する必要がある……」。しかし、そうは思っても、我

が家の経済状態ではとても無理であることは分かっていました。

やはり諦めるしかないか、と思いましたが、これまで、常に励ましてくれた母親であれば何とかしてくれるのではないか、というはかない期待を持って相談しました。

母の答えは、意外にも全面的に応援してくれるとのことでした。

「学んで身についたことは一生自分の宝である」と、進学することを勧めてくれました。

我が家の財布は母親がしっかり管理しており、父親も賛成してくれました。母親は働いて応援してくれました。そのような状況でしたので4年間はしっかり授業にも出席し、無事に卒業をすることができました。

3年生になり、専門分野を学ぶための専攻は、将来海外で仕事をするために、「商業英語」のゼミを選択しました。海外との貿易関係の仕事をするためには、必要な科目でした。

「学生期」の志学の時期に出会った人々、中学時代の先生、寮生活で出会った友人、ゼミの恩師、そして母親の言葉などは、自分の人生の中で一番向学心に燃える時代に出会えた恩人です。

卒業時の昭和44年(1969年)は、全国的に既存体制への反発をする学生運動が盛んでした。東大の安田講堂を全共闘が占拠していたように、全国大学では校舎封鎖などにより、卒業式も静粛に挙行することができませんでしたが、無事卒業することはできました。