真っ黒な液体がぶすぶす俺の腹の底から湧き出て煮えたぎり、わしの腸をすっかり黒々と焼いちまったのは、その時だ。

小僧のわしを庇ってくれる人間なんぞ、誰もいない。誰も信じられない。

だから。こんな所で、たった一人で死ぬのは、ごめんだ。

わしは必死にあがいた。

硬い縄目の中でもがくうちに、偶然左肩にがくんとひどい痛みが走り、関節が外れた。縄目にわずかな隙間ができた。見張りは焚火を囲んで酒を飲んでいた。本堂に引っ込んだ僧どもはなかなか出てこない。

奴らは一人で六人も殺したわしを怖がっているのだ。だが怖がられることほど、こっちにとってまずいことはない。奴らはわしを怖がって、なんとかしてわしを死なせようとするだろう。

わしは酒をくらっていい機嫌になっている見張り達を見ながら、気づかれないように右手で少しずつ縄目を緩めた。今度はわざと右肩の関節も外して一気に縄を抜け、大木に飛び上がった。

そしてそのまま野猿のように枝々を伝い、山の中に消えた。

その後、わしは鞍馬山で暮らした。山の暮らしは慣れていた。そのうちに元僧兵や修験道の行者崩れ、喧嘩や盗みで里にいられなくなった者などがわしの周りに集まり、わし等はいつか、鞍馬の天狗と呼ばれるようになったんだ」

月の美しかった四十年前の鞍馬山の夜のように、ここ伊勢二見浦の西行庵(さいぎょうあん)でも、僧正坊は一人で勝手に話し続けた。

「もう義経には、京の周りに隠れる処がどこにも無いんだ。こんな話が、あるか。酷いじゃないか。実の兄にも、後白河上皇にも、あいつは裏切られたのだ」

「それで、わたしに何をせよと言うのだ」

「あいつを奥州平泉へ逃がしてやりたいんだ。西国は、滅んだ平家の領地だったから危険だ。あいつが源頼朝に出会う前まで身を寄せていた藤原秀衡(ひでひら)公のいる、奥州平泉なら……」

「話はわかった。だが、わたしに何をせよと」

「わかるか、そんなこと」

僧正坊は声を張り上げ、威張って宣言した。

 

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