序章 旅立ち

僧正坊が教えてくれた泉は、その後の庵(いおり)の暮らしに大層役に立った。西行が鞍馬山(くらまやま)に籠(こも)っていた間にほんの数回、僧正坊は西行の庵(いおり)を訪れた。

いつも人を馬鹿にしたような高笑いとともに、突然やってくる。それも西行が経文 (きょうもん)を開いて居眠りしていたり、慣れない手つきで竃(かまど)に火を起こして煙にむせていたり、妙な時ばかりに来る。だから西行はいつも迷惑げな頂面仏(ぶっちょうづら)で僧正坊を迎えた。

僧正坊は勝手に庵(いおり)の隅(すみ)の米櫃(こめびつ)の蓋(ふた)を開け米を掬(すく)うと、持ってきた袋に盛大に開けた。

その度に西行は「米盗人 (こめぬすっと)っ」と怒鳴る。

僧正坊は「坊主の癖に、修行が足らん」とからからと笑う。

そして懐(ふところ)から汚い袋に入った団栗 (どんぐり)を出してアクの抜き方を教えたり、野菜の種を出して育て方を教えたりする。鍬(くわ)の持ち方まで伝授する。

どうやら人に物を教えて偉そうにするのが好きらしい。不慣れな手つきで鍬(くわ)を持つ西行を見てからかい、負けず嫌いな西行が悔しそうな表情をすると、心底 (しんそこ)嬉しそうに高笑いする。ひとしきり西行を悔しがらせればそれで満足するらしく、あっという間に消えてしまう。それ以上、話らしい話もしない。

僧正坊が自分の身の上話をしたのは、ふとしたきっかけだった。

それは月の美しいある夜のことであった。

鞍馬山(くらまやま)の庵(いおり)で、西行は月を見上げていた。月を見るといつも、西行は待賢門院璋子 (たいけんもんいんたまこ)を思い出す。

「どんなに憧(あこが)れても、叶(かな)わぬ人だった……」

西行はつぶやいた。それなのに、僧形 (そうぎょう)になった今でも忘れることができない。そして、西行には確信があった。