あの人は、今でもこの世にただ一人きりだ。大勢の人々に囲まれているのに、誰一人としてあの人を助ける者はいない。あの人は今、どす黒い陰謀(いんぼう)の只中 (ただなか)にいる。巨大な暗い運命があの人を飲み込もうとしている。
あの人は、一人ぼっちだ。
だから、もしかすると、あの人は自分を思い出しているかもしれない。
そう思うと、西行は身体がちぎれるほど逢(あ)いたいと思った。一度だけ触れたあの人の滑(なめ)らかな肌、香しい熱い息が、まだ身の内に残っている気がする。西行は身を振り絞(しぼ)るようにして涙を流し続けた。
一陣(いちじん)の風とともに、頬が触れるほどの近さに僧正坊が降り立った。僧正坊は西行が泣いているのを察したらしかった。僧正坊は照れ臭そうに不器用に身をずらし、少し距離をとって西行の傍(かたわ)らに腰かけた。西行は見られても別に構(かま)わなかった。
相手は人外の者だ。何と思われようと恥じる必要もない。僧正坊を振り向きもしなかった。
しかし、「仕方ないさ。手の届かない人ではね」と僧正坊がつぶやいた時には、西行は、ぎょっとして振り返った。
僧正坊は、前より一層照れくさそうに、慌(あわ)てた。
「いや……なに……お主、元は名のある武士だろ。お主の腕を見れば、わかるさ。そんな立派な武士にも手の届かない人、といえば……宮中の姫君か……いや、どうでもいいのだ、そんなことは。わしは天狗(てんぐ)だ。人間には見えん物も、時には見えてしまうこともあるが、人間どもには、わしの声は聞こえんからのう……」
西行は沈黙している。天狗(てんぐ)は下界の人間とは話をしない。それだけではなく、僧正坊が友の秘密を死んでも口外しないことを、西行はわかっていた。
照れ隠しのつもりだろうか。西行を安心させるために自分の秘密を打ち明けてみせたのだろうか。僧正坊は尋(たず)ねもしないのに自分の身の上を一人語りに語り始めた。
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