その茜屋の六代目の主で、社長を務める沖村高志は三十八歳。その妻で女将の知世(ともよ)も同じ歳である。高志は東京の大学の観光学科を出て、アメリカ留学を経て茜屋に戻った。

一方、妻の知世は石川県の粟津温泉の旅館の娘として生まれ、地元の短大を卒業後に航空会社社員となった。二人ともスラリとした魅力ある若者だったが、お互いに旅館の子息との結婚には気が進まなかった。

しかし、人の勧めで見合いをした結果、ともに旅館の子息らしくない点が気に入って、実直な好青年と素敵なお嬢さんとの夫婦が誕生したのだ。

高志の父であり、茜屋の先代社長であった沖村健介は、東京六大学に通っていた時代に映画スターの石原裕次郎と親友になり、その友情は一生涯続いた。

やけに気が合い、ゴルフをしたりヨットに乗ったり、次第に肝胆相照らす仲となっていった。健介があわらに戻って茜屋を継いでからも、裕次郎は夫人を伴って毎年のように茜屋を訪れ、健介の妻・寿恵子とも親交を深めた。

高志と知世の結婚の際には、石原軍団を引き連れて、福井の婚礼名物「饅頭撒き」を茜屋の大屋根から決行した。饅頭ばかりか、特製の「裕次郎Tシャツ」まで大勢の市民に振舞って、大盛況の婚礼行事となった。

それだけではない。披露宴でも東京から専属の生バンドを連れてきて、裕次郎はじめ渡哲也など石原軍団のメンバーたちも自身の持ち歌や得意曲を披露し、まるで身内のように出席者をもてなした。

また、裕次郎は茜屋で石原プロの役員会を度々開催したり、CMで長年お世話になっている酒造会社の接待にも使っていた。

宴会の後は、バーで裕次郎や渡哲也たちがカラオケで歌い、「ようこそ、あわら温泉茜屋へお越しくださいました」と茶目っ気たっぷりに司会までしている音源も残されている。

裕次郎が茜屋に滞在する時には、昼頃に起きてきて、仕事中の健介を「健ちゃん、一緒に風呂入ろうよ」と無理やり連れ出すという光景もしばしば見られたという。そんな遠慮会釈のない行為がそれだけ気心が知れた仲だということを表していた。

裕次郎が亡くなる前年の秋には、夫人とともに四十日間も茜屋に長期滞在していることもそれを物語る。

裕次郎は亡くなる直前、生涯の友に十個の金のメダルを分けたが、健介はその「ナンバー6」の刻印のメダルを贈られた。そのメダルは大切に茜屋の金庫に保管されている。

高志や知世は、そうした裕次郎や夫人とのご縁も誇りとして胸に秘め、日々の接客に当たっているのだった。

【前回の記事を読む】地震や大火から不死鳥のように蘇った「あわら温泉」温泉街の発展に若手経営者が声を上げる!…

 

【イチオシ記事】我が子を虐待してしまった母親の悲痛な境遇。看護学生が助産師を志した理由とは

【注目記事】あの日、同じように妻を抱きしめていたのなら…。泣いている義姉をソファーに横たえ、そして…