主題ハ長調

大好きな音

その日、和枝のスタインウェイはこのB型中古か、二十日に選んでキープしてもらっている新品のO型のいずれかに絞られた。さらにスーパーバイザー役をお願いする調律師の伊東さんとの日程調整で二十六日まで最終決定を待ってもらうことにした。

もう一台の候補だったA型は、タッチが重いのと、よくよく考えて、肝心の音がO型ほどは好きになれないという理由で和枝が外した。

廉は音色の豊かさ、高音の響き具合、姿の美しさを含めた自分なりの好みから中古のB型に決まればいいなと希望的観測をしている。でも和枝は新品O型の音に強く惹かれている。

プロと素人、弾き手とリスナーの立ち位置の違いから来るものなのか。廉は曲の輪郭から辿って音の良し悪しを探っているが、和枝は弾きながら、一旦、音の深淵に潜り込んで、音と対話してから好悪を判断しているように見える。

だから和枝の「このO型の音、大好きよ」という感想は、揺るぎない価値観なのだと思う。ここまで来たらもう和枝の領域で、自分の心と話し合って決めてもらうしかない。

廉はB型の可能性について感じるままを和枝に話したが、その感想が最終的にO型に決める判断材料になっても構わないという思いだった。

この日、和枝と廉はとてもいい時間を過ごした。将来、きっとこの時の高揚した幸せな気分を幾度となく思い出すことだろうと廉は思った。約束の二十六日は打って変わり大雨になった。

一九八八年ハンブルク工場製Bモデル211製造番号504304、和枝と遥のスタインウェイが決まる。

最終選定には再び姉の美月も駆けつけてくれ、調律師の伊東さんもたくさん意見や感想を述べてくれた。

開店から一時間後の正午過ぎ、中古のB型でドビュッシー「沈める寺」を弾いていた和枝が手を止めて立ち上がり、「これに決めさせていただきます」と言った。

価格は運送と室内設置料込みで切りよく六五〇万円。和枝のレッスン室は二階なのでクレーンでの吊り上げも必要となるが、その料金もサービスということにしてくれた。

廉が「感謝!感謝」と内心喜んでいると、調律師の伊東さんが「宮田さん、あのピアノ椅子も付けてよ」と、和枝が腰掛けているスタイリッシュな椅子を指さした。

それはイタリアのランザーニ社製でマウリツィオ・ポリーニが愛用しているもの。黒の本革に赤い糸のステッチが二本走っているおしゃれな椅子だった。

これには宮田店長も「それはさすがに無理です」と首を縦には振らなかった。和枝も「家の椅子に慣れていますから、もう十分です。伊東さん、ありがとうございます」。