これで売買契約は終わり、午後一時過ぎには美月も帰っていった。
和枝と廉は、初めて二人で行ったイタリア料理店で昼食にした。
和枝は自分で下した決断には責任を持つタイプだが、なぜこのピアノに決まったのか、その理由が自分でも見つからないという不思議な感覚に捕らわれていた。
納品は年明け一月十日と決まる。
今回のピアノは三回の中古販売会の中でも一番状態が良かったのではないだろうか。手当ても全弦交換とハンマーの調整くらいで済んだ。ワシントン条約により流通が規制されている象牙の鍵盤もそのまま。
肝心のハンマーはひと昔前の標準仕様で、丁寧な細工が施されていて、それだけでもとびきりの付加価値がある、と調律師の伊東さんも絶賛していた。
翌朝は二人とも思いっきり朝寝坊した。階下で遥が口笛を吹きながら何やら活動を始めている音に、廉だけが目を開いた。隣のベッドの和枝の寝顔を見ながら思った。
ピアノをたった一台に絞る以上、すべてに満足のいく答えを見つけることは難しい。唯一無二の楽器と巡り合えればいいが、やはり人生一般と照らし合わせてみても、そういう状況に恵まれることは考えにくい。
和枝がB型に決めたのは「将来性」に賭けたのが理由。
音について言えば、今の時点のO型が和枝にとっての「比類なき音」だったのは間違いないが、これからの長い音楽人生のパートナー選びという価値観を物差しに決断した。
例のホロヴィッツ愛用のピアノで演奏会を開いたアレクサンダー・コブリンがこう言った。「海のように広くて深い可能性があるが、長く弾いていかないと長所を引き出せないと思う」。和枝にとって今回選んだB型はそういう存在なのかもしれない。
和枝は昨日、最終決断をする直前に、呉羽楽器の宮田店長に意味深長な質問を投げかけていた。「聞いていいのかな。前の持ち主さん、こんなにステキな、まだまだこれからっていう楽器を何で売っちゃったんですか」
これから持ち主になろうという人間ならきっと抱く、至極もっともな疑問。「このピアノに暗い過去があったら嫌だ」という率直な気持ち。
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